第40話 妹
「ヨハンナ様と申されました」
「聞いたことがありません」
「令嬢がお生まれになる前に、家を出ておられます」
彼女は言った。
「エルフリーデ様のご実家は、ヴェスターマン子爵家。ヨハンナ様は次女で、十七のときに家を出られました」
「なぜ」
「――駆け落ちでございます」
彼女は言った。
「相手は、王都の楽師だったと聞いております。子爵家は、ヨハンナ様を籍から外しました」
私は、椅子に座り直した。
母の妹。母より年下。家を出て、籍を抜かれた女。
――そんな人がいたのか。
「マルタ。ヨハンナ様は、なぜ王宮の西の離れに」
「楽師が、死んだのです」
彼女は言った。
「四百十八年。ヨハンナ様は、身寄りを失われました。三十を越えておられました」
彼女は言った。
「そして、姉君を頼られたのです」
私は、息を呑んだ。
「――母を」
「はい」
マルタは言った。
「エルフリーデ様が、王宮に口をきかれました。西の離れの、針子として」
私は、両手で顔を覆った。
――母が。
母が、妹を王宮に入れた。
助けるために。
「令嬢」
「――続けてください」
「四百十九年の春、ヨハンナ様は、殿下のお目に留まりました」
彼女は言った。
「西の離れは、殿下がお使いになる館でございます。当時、殿下は二十二歳。ご婚約は決まっておりましたが、まだご成婚前でした」
「――母は、それを知っていましたか」
マルタは、首を振った。
「知られたのは、秋でございます」
彼女は言った。
「ヨハンナ様が、身ごもられて」
私は、顔を上げた。
――四百十九年の秋。
母が、照会状を出した季節だ。
「マルタ」
私は言った。
「母は、四百十九年の第十の月に、財務局へ照会状を出しています」
「存じております」
彼女は言った。
「エルフリーデ様は、その少し前に、西の離れへいらっしゃいました」
「妹に会いに」
「はい」
彼女は言った。
「私は、その場におりました」
私は、身を乗り出した。
「母は、何と」
マルタは、目を閉じた。
思い出すのに、時間がかかるようだった。
「――『あなたを、ここから出します』と」
彼女は言った。
「ヨハンナ様は、断られました」
「なぜ」
「怖かったのでしょう」
彼女は言った。
「行くところがない。子を抱えて、三十を過ぎた女が、どこへ行けるか」
彼女は言った。
「エルフリーデ様は、こうおっしゃいました。『では、私が場所を作ります』と」
私は、机の縁を掴んだ。
「――場所」
「はい」
マルタは、目を開けた。
「令嬢。エルフリーデ様が、なぜ財務局に照会状をお出しになったか、お分かりですか」
「――貧民施設の薬の件です」
「表向きは」
彼女は言った。
「ですが、あの方は、その一か月前に、妹君のことをお知りになっていた」
私の背が、冷たくなった。
「――母は」
「王宮の金の流れを、お調べになろうとしたのだと、私は思っております」
彼女は言った。
「殿下の弱みを掴むために」
◇
私は、しばらく声が出なかった。
――母は、聖人ではなかった。
貧民施設の薬を憂えて、正義のために立ち上がった人ではなかった。
妹を守るために、王子の弱みを探した人だった。
私は、母の照会状の文面を思い出した。
――当家は聖アグネス救貧院に対し、亡き先代より寄進を続けております。
――王国が支出した補助金の額と、同院が実際に受領した薬品の量に、齟齬がある可能性を憂慮しております。
あれは、口実だったのか。
――いや。
私は、目を閉じた。
――どちらもだ。
母は、貧民施設の訴えを本当に受け取っていた。そして、妹を守る必要があった。二つが、同じ方向を向いていた。
だから、動いた。
――私と、同じだ。
私も、レオのために動き始めて、その先で百五十人の死者に行き当たった。
順番が、逆なだけだ。
「マルタ」
私は言った。
「母は、その後」
「四百十九年の第十二の月に、亡くなられました」
彼女は言った。
「ヨハンナ様が、そのことをお知りになったのは、翌年の春でございます」
「――誰も伝えなかったのですか」
「伝えられません」
彼女は言った。
「ヨハンナ様は、離れから出られませんでしたので」
私は、拳を握った。
「ヨハンナ様は、四百二十年の第七の月に、男児をお産みになりました」
彼女は言った。
「そして――三日後に、亡くなられました」
私は、顔を上げた。
「死因は」
「産後の出血、と」
彼女は言った。
「本当かどうかは、分かりません」
◇
「令嬢」
マルタは言った。
「私は、あの日、赤子を抱いて、ラインヴァルト様にお渡ししました」
彼女は言った。
「どこへ連れて行くのか、聞きました。フォークト伯爵家だと言われました」
彼女は、私を見た。
「私は、思いました。ああ、エルフリーデ様のお家だ、と」
彼女は言った。
「妹君のお子が、姉君のお家へ行く。それだけが、救いでした」
私は、その言葉を聞いた。
――レオは、母の甥だ。
私の、従弟だ。
弟ではなかった。
でも。
「マルタ」
「はい」
「あなたは、なぜフォークト家に来たのですか」
「見届けるためです」
彼女は言った。
「エルフリーデ様が、私を王宮に置いてくださった方だからです」
彼女は言った。
「――あの方は、妹君のことだけではありませんでした」
「どういうことですか」
「四百十八年、私が西の離れに入ったとき、私は十九でした」
彼女は言った。
「田舎から出てきて、身寄りがなく、字も読めませんでした」
彼女は言った。
「エルフリーデ様が、妹君を訪ねていらしたときに、私にこうおっしゃった。『あなた、字を習いなさい。読めない人は、いつか使われます』と」
私は、息を呑んだ。
「――母が」
「そして、二度目にいらしたとき、手習いの本をくださいました」
彼女は言った。
「私は、それで字を覚えました」
彼女は、寝台の下から、小さな箱を取り出した。
開けた。
中に、擦り切れた本が一冊。
子ども用の、手習い帳だった。
「令嬢」
彼女は言った。
「私は、この九年、坊ちゃまの薬について黙っておりました」
彼女は言った。
「それは、私の罪でございます」
彼女は、本を握りしめた。
「ですが、一つだけ、していたことがございます」
「――なんですか」
彼女は、箱の底から、紙の束を取り出した。
私は、それを受け取った。
開いた。
――日付が並んでいた。
四百二十年から、四百二十九年まで。
九年分。
そして、日付の横に、短い記述。
――第八の月三日。薬、届く。瓶、褐色。封、天秤の紋。
――第九の月一日。薬、届く。同上。
――第十の月二日。薬、届く。同上。坊ちゃま、朝から起きられず。
私は、頁をめくった。
九年。百八回分の、薬の受領記録。
そして、その日のレオの様子。
私は、顔を上げた。
「マルタ。これは」
「私が、つけておりました」
彼女は言った。
「字を、教えていただきましたので」
彼女は言った。
「いつか、誰かが聞きに来たときに、渡せるように」
私は、その紙束を、両手で抱えた。
九年。
この人は、九年、書き続けていた。
誰も来ないかもしれないと思いながら。
「――マルタ」
私は言った。
声が、崩れた。
「ありがとう」
◇
その紙束を、ジークベルトは長いあいだ見ていた。
保護所の机の上。燭台が三本。
「――イレーネ嬢」
彼は言った。
「これは、決定的です」
「はい」
「九年分の、日次記録です。第三者による、継続的な観察記録」
彼は言った。
「投与された薬の受領日、瓶の外観、そして被害者の状態変化」
彼は、頁をめくった。
「四百二十四年から、記述が変わっています」
「――はい」
私は言った。
「そこから、レオの体調の記述が増えます」
「薬事局の特別会計から、伯爵夫人への支払が始まったのが四百二十四年」
彼は言った。
「一致します」
彼は、紙束を置いた。
「これで、因果が繋がります」
彼は言った。
「薄い薬が届いた日と、症状が悪化した日。九年分、百八回」
彼は、顔を上げた。
「医学的因果ではありません。ですが、これだけの回数の対応があれば、偶然では説明できない」
私は、頷いた。
「卿。もう一つ、あります」
「なんでしょう」
「マルタは、レオを取り上げた人間です」
私は言った。
「母親が誰かを、直接知っている唯一の生存者です」
私は、顔を上げた。
「そして、ヨハンナ・ヴェスターマンは、私の母の実の妹です」
私は言った。
「フォークト家は、レオの出自について、当事者です」
ジークベルトが、私を見た。
「――イレーネ嬢」
「はい」
「何を、なさるつもりですか」
私は、机の上の紙束に手を置いた。
「レオの、出生届の訂正を申請します」
私は言った。
「母の欄の、空白を埋めます」
部屋が、静かになった。
「――そこに、ヨハンナ・ヴェスターマンと書けば」
「はい」
私は言った。
「レオは、母の甥になります。フォークト家の血縁として、正式に籍に入ります」
私は言った。
「そして、王家とは無関係になります」
ジークベルトの目が、細くなった。
「――守るのですね」
「はい」
私は言った。
「あの子を、王族にしません」
私は、紙束を握った。
「そして、そのために、殿下に認めさせます」
私は言った。
「レオの母がヨハンナであることを、殿下ご自身に」




