第39話 命じない人
「――読みました」
北部貴族の館の書斎で、彼女は言った。
暖炉の火が、この前と同じように燃えている。
「令嬢。この証言で、兄を裁けると思いますか」
私は、答えられなかった。
「裁けません」
ジークベルトが言った。
「ラインヴァルトの証言は、すべて『殿下がこう言われた』です。書状の中身は知らない。赤子の母は見ていない。薬については、殿下は何も命じていない」
彼は言った。
「法廷で問われれば、こうなります。『殿下は、外に出すなとしか言っていない』」
「――それは、罪ではない」
殿下が言った。
「はい」
彼は言った。
「そして、殿下ご自身は、一度も文書に名を残していません。二十年、一枚も」
私は、拳を握った。
――そうだ。
ラインヴァルトの印は、二十件の伝票に押されていた。ヴァイマーの署名は、百九十四件の調剤記録にあった。継母の印は、支払指図書にあった。侯爵の印は、融資契約にあった。
全員が、紙に名前を残した。
第二王子だけが、残していない。
「殿下」
私は言った。
「一つ、伺ってよろしいですか」
「どうぞ」
「殿下は、この件を最初にご存じになったのは、いつですか」
彼女は、暖炉を見た。
「四百二十六年です」
彼女は言った。
「補助金の齟齬を見つけたときに。ですが、そのときは、金の話だと思っていました」
「レオのことは」
「――知りませんでした」
彼女は言った。
「今、知りました」
彼女は、こちらを見た。
「令嬢。あの子は、私の甥かもしれないのですね」
私は、頭を下げた。
「――申し訳ありません」
「なぜ謝るのです」
「殿下に、辛いことを申し上げました」
「辛くはありません」
彼女は言った。
声が、平坦だった。
「兄が、そういう人であることは、二十四年知っています」
◇
「――整理します」
その夜、保護所で、私は机に紙を広げた。
ジークベルト、ハーゲン、そして書記のヴェルナー。
「現在、確定していること」
私は言った。
「ひとつ。補助金一万三千ゴルドの詐取。ラインヴァルト、ヴァイマー、ローゼンタール侯爵、ケラー商会、そして継母」
私は指を折った。
「ふたつ。薬の希釈と鉛白混入。商会の免許剥奪、代表と番頭の起訴」
「みっつ」
「十一施設における三年間の超過死亡、およそ百五十名。因果は未証明」
私は言った。
「よっつ。レオの出生の異常。母の欄空白、財務局書記官による受理、第二王子の関与の証言」
私は、顔を上げた。
「そして、確定していないこと」
私は言った。
「九千ゴルドの最終的な行き先。第二王子の直接関与。母の死の原因」
部屋が、静かになった。
「フォークト嬢」
ハーゲンが言った。
「九千ゴルドですが、一つ進展があります」
「なんですか」
「薬事局特別会計の八百行を、全部追いました」
彼は言った。
「五十七の支出先。そのうち五十四は、実在の取引です。額も妥当」
「残る三つは」
「実在しません」
彼は言った。
「王都印刷組合、ヴァイス商会、ホルツ工房。この三つが、上位三件でした」
彼は書類を出した。
「王都印刷組合は実在します。ですが、薬事局との取引は年に三回程度。帳簿では八十二回」
「水増し」
「はい」
彼は言った。
「ヴァイス商会は、四百二十四年に設立され、四百二十九年に解散しています。取引実態は確認できません」
「ホルツ工房は」
「――存在しません」
彼は言った。
「登記がない。住所は空き地です」
私は、書類を睨んだ。
「この三つで、いくらですか」
「合計、七千八百ゴルド」
彼は言った。
「残る千二百は、他の支出先への水増し分に散っています」
私は、指を止めた。
「――ハーゲン様。ヴァイス商会の設立者は」
「調べました」
彼は言った。
「名義人は、ヨナス・ヴァイス。王都の元書記官。四百二十六年に死亡しています」
「――死んでいる」
「病死です」
彼は言った。
「胃の炎症」
私は、目を閉じた。
三人目だ。
母。ヴァイマー。そして、この男。
◇
「行き止まりですね」
私は言った。
「はい」
ジークベルトが言った。
「金の道は、そこで切れます」
「では、どうしますか」
「イレーネ嬢」
彼は言った。
「一つ、考えていることがあります」
「なんでしょう」
「金を追うのをやめます」
私は、顔を上げた。
「――やめる?」
「はい」
彼は言った。
「九千ゴルドは、もう追えません。受け皿が全部消されています。これ以上、そこに時間を使えば、二年が過ぎます」
二年。
私の胸が、鳴った。
――この人は、私の期限を知らない。
知らないのに、二年と言った。
「では、何を追うのですか」
「殿下が、消していないものです」
彼は言った。
私は、身を乗り出した。
「殿下は、文書に名を残していません」
彼は言った。
「二十年、一枚も。それは、周到だからです。ですが、周到な人間ほど、あるものを消せません」
「――なんですか」
「人です」
彼は言った。
「殿下は、命じない。望みを口にするだけ。ですが、望みを聞いた人間は、必ずいます」
彼は、指を折った。
「ラインヴァルト。ヴァイマー。ヨナス・ヴァイス。ローゼンタール侯爵。伯爵夫人」
彼は言った。
「そして、まだ一人います」
私は、考えた。
――誰だ。
王宮の西の離れ。赤子。産婆。
「産婆ですか」
「それも一人です」
彼は言った。
「ですが、私が考えているのは、別の人物です」
彼は、机の上に一枚の紙を置いた。
私は、それを読んだ。
――王宮西の離れ、四百二十年当時の使用人名簿。
「ハーゲンが、王宮の人事記録から取りました」
彼は言った。
「四百二十年、西の離れに配属されていた侍女は、四名」
私は、名簿を読んだ。
四つの名前。
三つに、印がついていた。
「この三名は」
「死亡しています」
ハーゲンが言った。
「四百二十一年に一名、四百二十三年に一名、四百二十六年に一名」
私は、四つ目の名前を見た。
印が、ついていない。
――マルタ・キーファー。
私は、その名を見つめた。
――マルタ。
どこかで。
「卿」
私は言った。
「この名前、私は知っています」
「――なんですと」
「マルタ」
私は言った。
「うちの女中頭です」
私は、顔を上げた。
「十五年、フォークト家にいます」
◇
その夜、私は屋敷へ向かった。
夜中だったが、待てなかった。
使用人棟の扉を叩くと、寝間着姿のマルタが出てきた。
中年の、無口な女。私が子どものころから、この家にいる。
彼女は、私を見て、何も言わなかった。
「マルタ」
私は言った。
「話があります」
彼女は、私の後ろに立つジークベルトを見た。
そして、一歩下がった。
「――どうぞ」
彼女は言った。
「お待ちしておりました」
私は、動きを止めた。
「――待っていた?」
「はい」
マルタは言った。
「九年、待っておりました」
◇
狭い部屋だった。
寝台と、椅子が一つ。マルタは私に椅子を勧め、自分は寝台の端に座った。
「私は、四百十八年から四百二十年まで、王宮の西の離れにおりました」
彼女は言った。
「侍女です。四名おりました」
「他の三名は」
「――死にました」
彼女は言った。
「順番に」
私は、息を呑んだ。
「あなたは、なぜ生きているのですか」
「逃げたからです」
彼女は言った。
「四百二十年の秋、私は暇を願い出ました。母が病だと嘘をついて」
彼女は言った。
「そして、フォークト家に奉公に入りました」
「――なぜ、フォークト家に」
マルタは、私を見た。
「あの子が、来た家だからです」
私の視界が、揺れた。
「あなたは」
「私が、取り上げました」
彼女は言った。
「産婆は形だけでした。実際に手を貸したのは、私です」
彼女は、膝の上で手を握った。
「あの方が生まれたとき、私が最初に抱きました」
私は、椅子から立ち上がりそうになった。
「マルタ。レオの母は」
彼女は、しばらく黙っていた。
「――令嬢」
彼女は言った。
「私は、九年、この家におりました。あなたが坊ちゃまに薬を飲ませるのを、見ておりました」
彼女は言った。
「薄い薬だと、私は知っていました。何も言いませんでした」
彼女の声が、震えた。
「私が黙っていたのは、私が死にたくなかったからです」
彼女は、顔を上げた。
「令嬢。あなたが監査局を連れてきた日から、私は毎晩、いつ話そうかと考えておりました」
彼女は言った。
「今日、来てくださって、よかった」
私は、彼女の前に膝をついた。
「マルタ」
「はい」
「レオの母は、誰ですか」
彼女は、私の目を見た。
そして、言った。
「――エルフリーデ様の、妹君でございます」




