第37話 かぶる男
ゴットハルト・ラインヴァルトは、五十四歳だった。
王宮監察部の聴取室で、私は初めてその男を間近に見た。
中肉中背。白髪混じりの髪を後ろに撫でつけている。上着は上等だが、袖口が擦り切れかけていた。職務停止中の身で、新調していないのだろう。
同席が許されたのは、第三王女の口添えだった。
「――そちらの令嬢は」
ラインヴァルトが、私を見た。
「監査局補助員です」
ジークベルトが言った。
「フォークト伯爵令嬢ですな」
彼は言った。
「エルフリーデ様のご息女」
私の指が、冷たくなった。
この男は、母の照会状を握りつぶした男だ。
そして――母が死ぬ二か月前に、その紙を受け取った男。
「ラインヴァルト卿」
私は言った。
「母をご存じですか」
「存じております」
彼は言った。
「一度、お会いしました。四百十九年の秋に」
私は、身を乗り出しかけた。
ジークベルトの手が、机の下で私の腕に触れた。
――止めろ、という合図だった。
私は、座り直した。
◇
「本日は、四百二十三年の件で伺います」
ジークベルトが言った。
「四百二十三年」
「はい。第五の月、十七日」
彼は、油紙に包んだものを机に置いた。
包みを開く。
一枚の紙。
ラインヴァルトの目が、そこへ落ちた。
――動かなかった。
瞬きもしなかった。
その反応の無さが、答えだった。人は、まったく見覚えのないものを見たとき、必ず何かの動きをする。眉を寄せるか、首を傾げるか。
この男は、何もしなかった。
「これは、フォークト伯爵家の来客帳の一頁です」
ジークベルトが言った。
「四百二十三年、第五の月十七日。午後六時二十分来着、午後七時十分辞去。来客名、アルベルト・フォン・ヴァイセンブルク。同行、G・ラインヴァルト」
彼は、顔を上げた。
「このGは、貴殿ですか」
ラインヴァルトは、しばらく黙っていた。
「――違います」
彼は言った。
「私は、四百二十三年にフォークト伯爵邸を訪ねておりません」
「では、このGは誰ですか」
「知りません」
「では、殿下がフォークト伯爵邸を訪ねられたことは」
「ありません」
彼は言った。
「そのような事実はありません」
ジークベルトは、頷いた。
「記録を」
書記のペンが、走った。
「――否認。四百二十三年の来訪を否定。同行者としての記載を否定」
ラインヴァルトが、書記のほうを見た。
その目に、初めて、わずかな警戒が浮かんだ。
◇
「では、別の件を伺います」
ジークベルトが言った。
「四百二十年、第七の月。フォークト伯爵家に、赤子が届けられました」
「……」
「届けたのは、貴殿ですね」
「――違います」
「フォークト伯爵夫人アデーレが、そう証言しています」
「夫人は、罪を軽くするために私に責任を転嫁しています」
彼は言った。
これは、予想どおりの答えだった。
「では、レオ・フォークトの出生届について伺います」
ジークベルトは、書類を出した。
「四百二十年、第七の月九日付。届出人、フォークト伯爵。母の欄、空白。受付、財務局一等書記官ゴットハルト・ラインヴァルト」
彼は言った。
「これは、貴殿の筆跡ですね」
ラインヴァルトの喉が、動いた。
「……そうです」
「なぜ、財務局の書記官が、出生届を受け付けたのですか」
「――当時、書記局が繁忙で、応援に入っていました」
「その記録は」
「――残っていないでしょう」
「では、なぜ母の欄が空白のまま受理されたのですか」
「事務の不手際です」
彼は言った。
「私の落ち度です。認めます」
――上手い。
小さな罪を認めて、大きな罪から視線を逸らす。
「では、その不手際を、なぜ九年間訂正しなかったのですか」
「忘れていました」
「九年間」
「はい」
ジークベルトは、頷いた。
「記録を。九年間失念していたと証言」
ペンが、走った。
◇
「――ラインヴァルト卿」
私は、口を開いた。
ジークベルトが、こちらを見た。止めなかった。
「一つ、伺わせてください」
「なんでしょう、令嬢」
「あなたは、九千ゴルドを南方交易船に出資して失ったと証言されています」
「そうです」
「四百二十五年に沈んだ、三隻の船ですね」
「はい」
「船の名は」
ラインヴァルトが、答えなかった。
「三隻の名を、お教えいただけますか」
私は言った。
「――記憶していません」
「九千ゴルドを出資した船の名を」
「五年前です」
「五年前に九千ゴルドを失った船の名を、忘れますか」
私は言った。
「私は、三か月前に買った蝋の値を覚えています。一ポンド八グロートです」
部屋が、静かになった。
「令嬢」
彼は言った。
「私は、あなたのような記憶力を持っておりません」
「では、出資の記録は」
「――船と一緒に沈みました」
「出資者の手元にも、契約書が残るはずです」
私は言った。
「二通作って、一通ずつ持つ。それが取引の作法です」
「――処分しました」
「なぜ」
「見たくなかったからです」
彼は言った。
私は、その答えを、心の中で書き留めた。
――苦しい。
この男は、嘘を作るのが下手だ。
いや、違う。
嘘を作る必要がないと思っていたのだ。誰も追及しないと思っていたから。
◇
「ラインヴァルト卿」
ジークベルトが言った。
「本日は、以上です」
彼は、書類を閉じた。
「――ただし、最後に一点、お伝えしておきます」
「なんでしょう」
「貴殿は、補助金詐取の全額一万三千ゴルドを、自身の犯行と認めておられます」
「はい」
「量刑の見込みを申し上げます。金額が一万ゴルドを超える王国財産の詐取は、爵位剥奪、全財産没収、および終身の徒刑です」
ラインヴァルトの顔が、白くなった。
「――終身」
「はい」
「私は、話しています。協力しています」
「協力は、量刑の考慮事由になります」
ジークベルトは言った。
「ですが、単独犯として認めた場合、減じる余地が限られます。共犯者を明かさない限り、貴殿は全額の責任を負う」
彼は言った。
「そして、全財産没収です」
彼は、少し間を置いた。
「――ご家族は、どうなりますか」
ラインヴァルトの手が、机の上で止まった。
「奥様は、五十一歳。ご実家は既に断絶。年金はありません」
ジークベルトは、淡々と言った。
「爵位が剥奪されれば、王都の屋敷は没収されます。奥様は、住む場所を失います」
「――やめろ」
「弟君が一人。北西部で司祭をされていますね。四十八歳」
「やめろと言っている」
「貴殿の罪が確定すれば、弟君は罪人の縁者として、教区を移されるでしょう。慣例です」
ラインヴァルトが、立ち上がった。
監察官が制止した。
「――貴様ら、監査局は」
彼は言った。
「人の家族を使うのか」
「使っています」
ジークベルトは、表情を変えずに言った。
「貴殿がやっていることと、同じです」
「なんだと」
「貴殿は今、全部かぶろうとしている」
彼は言った。
「なぜですか。誰かに、そうすれば家族は守ると言われましたか」
ラインヴァルトが、動きを止めた。
「――言われましたね」
ジークベルトは、静かに言った。
「私は、その約束が守られた例を、一度も見たことがありません」
彼は、書類を鞄に入れた。
「私の父も、同じことを考えました」
彼は言った。
「自分が消えれば、家族は守られると。誰にも言われていないのに、そう考えた」
彼は、立ち上がった。
「家族は、守られませんでした」
◇
聴取室を出たのは、日暮れだった。
王宮の廊下を、私たちは並んで歩いた。
「――卿」
「はい」
「あの話は、いつも使うのですか」
私は言った。
「お父様の話です」
彼は、答えなかった。
しばらく歩いてから、こう言った。
「三度目です」
「――三度」
「二十年で、三度」
彼は言った。
「使うたびに、少しずつ、父が遠くなります」
私は、彼の横顔を見た。
「では、なぜ」
「効くからです」
彼は言った。
「そして、本当だからです」
私は、足を止めた。
「卿」
「はい」
「私は、あなたのその話を、忘れません」
彼は、こちらを見た。
「――なぜ」
「あなたが、少しずつお父様を遠ざけているなら」
私は言った。
「私が、覚えておきます」
彼は、しばらく私を見ていた。
そして、視線を外した。
「――結構です」
彼は言った。
その声が、いつもより低かった。
◇
三日後、監察部から連絡が来た。
ラインヴァルトが、面会を求めているという。
相手は、ジークベルトではなかった。
――私だった。
「危険です」
ハーゲンが言った。
「二人きりにはさせません」
ジークベルトが言った。
「監察官が同席します。ですが、イレーネ嬢」
「はい」
「彼は、貴女を選びました」
彼は言った。
「なぜだと思いますか」
私は、考えた。
「――母のことを、話すつもりだと思います」
私は言った。
「あの人は、母に会っています。四百十九年の秋に」
私は、拳を握った。
「そして、その話をできる相手は、私しかいません」




