第36話 来客帳
グレーテルは、まだ保護所にいた。
殴られた頭の傷は塞がっていたが、医師が長い移動を止めていた。老執事は、寝台の上で半身を起こして、私の話を聞いた。
「――来客帳、でございますか」
「四百二十三年のものです」
私は言った。
「あなたがつけていたはずです」
彼は、しばらく考えていた。
「つけておりました。私が執事に上がったのが四百十四年でございますから、それ以降はすべて」
「保管場所は」
「玄関脇の小机の、引き出しでございます。一年ごとに綴じて、五年経ったものは西棟の書庫へ」
私は、立ち上がりかけた。
「――お待ちください、お嬢様」
彼は言った。
「西棟の書庫は、四百二十六年に整理されております」
私は、動きを止めた。
「整理」
「はい。伯爵夫人のご指示で。古い書類を処分すると」
老執事は、言いにくそうに続けた。
「私は反対いたしました。来客帳は家の記録でございますから。ですが、押し切られまして」
「――燃やされたのですか」
「分かりません」
彼は言った。
「運び出されたのは見ましたが、その後は」
私は、唇を噛んだ。
四百二十六年。第三王女が齟齬を見つけて職を解かれた年だ。
あの年に、彼らは一斉に片づけている。
「グレーテル」
「はい」
「四百二十三年に、殿下がいらしたことを、覚えている?」
老執事は、顔を上げた。
「――覚えております」
私の心臓が、跳ねた。
「本当に?」
「忘れるはずがございません」
彼は言った。
「王族の方が当家にいらしたのは、あの一度きりでございます」
◇
私は、寝台の脇に椅子を寄せた。
「話して」
「はい」
グレーテルは、少し目を閉じた。
「四百二十三年の、第五の月でございました。夕刻、日が長くなっていた頃です」
彼は言った。
「紋章を隠した馬車が、裏門に着きました。私が出ますと、供の方が『名は問うな』と」
「あなたは」
「規則ですので、と申し上げました」
彼は言った。
「来客帳に記載できない客はお通しできません、と」
私は、思わず身を乗り出した。
「――それで」
「揉めました」
彼は言った。
「四半刻ほど。そのうちに、馬車から降りていらした方が、こうおっしゃいました」
彼は、当時を思い出すように、目を細めた。
「『書いていい。だが、私が帰ったら、その頁を破れ』と」
私は、息を呑んだ。
「あなたは、書いたのですね」
「書きました」
「そして、破ったのですか」
グレーテルは、私を見た。
老いた目に、いつかの火が入っていた。
「――破りました」
彼は言った。
「ですが、お嬢様」
彼は、続けた。
「私は、五十年この家に仕えております。破れと言われた頁を、そのまま捨てる執事はおりません」
私は、立ち上がった。
「――どこに」
「私の部屋の、寝台の下でございます」
彼は言った。
「板を一枚、外してございます」
◇
屋敷へ戻ったのは、その日の夜だった。
ジークベルトとハーゲンが同行した。二人とも、無言だった。
グレーテルの部屋は、使用人棟の一階にあった。狭い部屋だ。寝台と、衣装箱と、小さな机。
私は、寝台を動かした。
床板を叩いた。
――三枚目で、音が変わった。
私は、指を差し込んだ。
板が、持ち上がった。
中に、紙が入っていた。
油紙に包まれている。丁寧に、何重にも。
私は、それを取り出して、机の上で開いた。
――一枚の頁だった。
来客帳から破り取られた、一頁。
私は、燭台を近づけた。
日付。四百二十三年、第五の月、十七日。
時刻。午後六時二十分、来着。午後七時十分、辞去。
来客名。
私は、その欄を読んだ。
――アルベルト・フォン・ヴァイセンブルク。
王家の姓だった。
その下に、もう一行あった。
――同行、G・ラインヴァルト。
私は、紙を置いた。
手が、震えていた。
「――卿」
「見えています」
ジークベルトが、私の後ろから覗き込んでいた。
「ハーゲン。この頁の紙質と、インクの経年を鑑定に。それから」
「来客帳の他の年の分ですね」
「はい」
ハーゲンが言った。
「同じ帳面から破られたことを示すには、綴じ穴の位置と紙の断裁面を照合します。他の年の来客帳が一冊でも残っていれば」
「西棟の書庫は、整理されています」
私は言った。
「全部でしょうか」
ハーゲンが言った。
「整理を命じた者は、来客帳の意味を知っていたでしょうか」
私は、顔を上げた。
――継母。
彼女は、四百二十六年に古い書類を処分させた。ラインヴァルトの指示だろう。
でも、彼女は「来客帳」を狙って捨てたのか。それとも、古い書類をまとめて捨てただけか。
「――行きます」
私は言った。
「西棟の書庫へ」
◇
西棟の書庫は、埃だらけだった。
三年、誰も入っていない。
棚が八列。半分以上が空だった。整理で運び出されたのだ。
私たちは、三人で棚を見ていった。
残っているのは、領地の測量図、古い小作契約、教会への寄進記録。
――帳面の類が、ない。
「フォークト嬢」
ハーゲンが、奥の棚から声を上げた。
「これは」
私は、駆け寄った。
棚の最下段。埃をかぶった、革表紙の帳面が三冊。
私は、一冊目を引き出した。
表紙に、金の箔押しで年号が入っている。
――王暦四百十五年。
私は、開いた。
来客帳だった。
日付、時刻、来客名、用件。グレーテルの字で、几帳面に。
「二冊目は」
「四百十六年」
「三冊目は」
「――四百十七年です」
私は、三冊を抱えた。
「なぜ、これだけ残っていたのでしょう」
「棚の奥です」
ハーゲンが言った。
「見落としたのでしょう。整理は、手前から進みますから」
私は、三冊を机に置いた。
「ハーゲン様。照合できますか」
「できます」
彼は言った。
「同じ工房で作られた帳面なら、綴じ穴の間隔が同一です。破り取られた頁の穴と、この三冊の穴を重ねます」
彼は、破られた一頁を取り上げた。
「――それと、もう一つ」
「なんでしょう」
「この一頁の裏面を見てください」
私は、紙を裏返した。
そこにも、記載があった。
――四百二十三年、第五の月、十八日。
翌日の分だ。
来客名。ケラー商会、番頭モーゼル。用件、薬品納入の打ち合わせ。
私は、顔を上げた。
「翌日に、商会が来ています」
「はい」
ハーゲンが言った。
「そして、この記載は破られていません。破られたのは、十七日の頁を含む一枚です」
彼は言った。
「両面に書かれた紙の、片面だけを破ることはできません」
私は、理解した。
「――だから、この頁には、無関係の記載も残っている」
「そうです」
彼は言った。
「そして、無関係の記載こそが、この紙が本物である証拠になります」
「なぜ」
「偽造するなら、余計なことは書かないからです」
◇
鑑定は、四日かかった。
結果は、こうだった。
――綴じ穴の間隔、四百十五年から十七年の来客帳と一致。
――紙質、同一の製紙所のもの。繊維の構成が一致。
――インクの経年、六年から八年前と推定。四百二十三年と矛盾しない。
――断裁面、鋭利な刃物ではなく、手で引き裂いた形状。綴じ側に残る紙片との照合は、当該年の帳面が現存しないため不可。
私は、その最後の一行を睨んだ。
「――決定打には、なりませんか」
「なりません」
ジークベルトが言った。
「元の帳面がないので、この頁がその帳面から出たとは断言できない。それが向こうの反論になります」
「では」
「ですが」
彼は言った。
「証言と組み合わせれば、話は変わります」
「グレーテルの証言ですか」
「それだけでは足りません」
彼は言った。
「グレーテルは貴女の家の使用人です。貴女に有利な証言をする動機があると言われます」
私は、机に手をついた。
――また、ここだ。
一枚ずつは弱い。組み合わせても、まだ届かない。
「イレーネ嬢」
ジークベルトが言った。
「もう一人、その日を覚えている人間がいます」
私は、顔を上げた。
「――誰ですか」
「同行者です」
彼は言った。
「ゴットハルト・ラインヴァルト」
私は、目を見開いた。
「次官に、証言させるのですか」
「本人は、認めないでしょう」
彼は言った。
「ですが、この一頁を見せて、否認させます」
「否認させる?」
「はい」
彼は言った。
「否認は、記録に残ります。そして、後で崩れたとき、否認したこと自体が罪になります」
私は、彼を見た。
――二重拘束だ。
この人は、また同じ罠を仕掛けている。
「卿」
「はい」
「次官が、認めたら」
「認めません」
彼は言った。
「認めれば、殿下に消されます。彼はそれを知っている」
彼は、書類をまとめた。
「ですが、イレーネ嬢。彼は今、職務停止中です。全部かぶれと言われて、かぶろうとしている」
彼は、顔を上げた。
「その男に、こう聞いたらどうなると思いますか」
彼は言った。
「『貴殿が全部かぶったあと、貴殿の家族はどうなりますか』と」




