第34話 雪の上の足跡
雪は、私の膝まであった。
裸足の足跡は、庭を横切り、生垣の切れ目から外へ出ていた。その脇を、二人分の大人の足跡が追っている。長靴。歩幅が広い。
私は、生垣を抜けた。
外は、なだらかな斜面だった。冬枯れの畑が、下の森まで続いている。
足跡は、森へ向かっていた。
「イレーネ嬢!」
背後で、ジークベルトが窓から飛び降りる音がした。
「森です」
私は、走りながら叫んだ。
「三人分。レオが先、追手が二人」
彼が追いついてきた。
「ハーゲンが局へ走りました。応援が来ます」
「間に合いません」
「――ええ」
彼は、走りながら言った。
斜面を下る。雪が重い。喪服の裾が、雪を掻いて足に絡む。私は、裾を膝まで持ち上げて走った。
森の入口で、足跡が乱れていた。
私は、しゃがんだ。
小さい足跡が、そこで一度止まっている。そして――
右へ折れていた。
大人の足跡は、まっすぐ森の奥へ入っている。
「卿」
私は言った。
「レオは、右へ行きました。追手は、まっすぐ入った」
「――見失っています」
「はい」
私は、右の方向を見た。
なだらかな上り坂。木がまばらで、雪が浅い。
そして、私は気づいた。
「卿。雪が浅いところを選んでいます」
「――なんですと」
「あの子は、二十五歩しか歩けません」
私は言った。
「走れない。だから、雪の浅いところを選んで、体力を使わないようにしている」
私の胸が、詰まった。
――考えている。
九歳の子が、追われながら、頭を使っている。
「行きます」
私は、右へ走った。
◇
足跡は、緩やかに上り、そして――消えた。
岩場だった。
雪が風で飛ばされて、岩肌が露出している。足跡が残らない。
私は、立ち止まった。
息が上がっている。指の感覚がない。
「――イレーネ嬢。落ち着いて」
ジークベルトが、周囲を見回した。
「この先は」
「分かりません」
私は言った。
「この辺りに来たのは、初めてです」
私は、岩場を見渡した。
――どこだ。
どこに行った。
考えろ。あの子の目で見ろ。
九歳。裸足。雪の中。追われている。息が上がっている。
――隠れる。
走り続けられないなら、隠れるしかない。
「卿。隠れられる場所はありますか」
彼は、岩場を見た。
「岩の窪み。倒木の下。あるいは」
彼は、斜面の上を指した。
「――あそこに、崩れた石積みがあります」
私は、目を凝らした。
三十歩ほど先。かつて何かの建物だったらしい石の積み重なりが、雪をかぶっている。
私は、走った。
石積みは、腰の高さほどだった。かつては小屋だったのだろう。壁が二面だけ残っている。
私は、その裏側に回った。
――いた。
石の陰に、丸くなっていた。
寝間着一枚で、裸足で、両腕で膝を抱えて。
「レオ!」
私は、雪の上に膝をついた。
弟が、顔を上げた。
唇が、紫色だった。目の焦点が合っていない。
「――あね、うえ」
声が、かすれていた。
「馬鹿ね。こんなところで」
私は、外套を脱いで弟を包んだ。
冷たい。腕が氷のようだ。
「レオ、聞こえる?」
「うん」
「よく逃げたわね」
「……にげた」
弟は、震えながら言った。
「じいちゃんが、逃げろって」
私の動きが、止まった。
「ハルデン翁が?」
「うん」
レオは言った。
「へやに、しらないひとが来て、じいちゃんが、まどをわって、レオを外に出した」
彼は、震える手で私の袖を掴んだ。
「じいちゃんは?」
私は、答えられなかった。
「じいちゃん、まだ来てないの?」
「――レオ」
「ぼく、じいちゃんを待ってたんだよ」
弟は言った。
「ここで待ってたら、来るって」
私は、弟を抱きしめた。
強く。
「――偉かった」
私は言った。
「よく、待てたわね」
◇
ジークベルトが、追いついてきた。
彼は、レオを見て、それから周囲を見た。
「連れて戻ります。イレーネ嬢、弟君を」
「はい」
彼は、レオを抱き上げた。
弟は、抵抗しなかった。もう、体力が残っていない。
私たちは、来た道を戻り始めた。
岩場を下り、森の縁に出た。
そこで、ジークベルトが足を止めた。
「――イレーネ嬢」
彼の声が、低かった。
私は、前を見た。
森の入口に、男が二人立っていた。
黒い外套。顔を布で覆っている。手に、短い棒のようなもの。
――追手だ。
戻ってきた。私たちの足跡を追って。
私は、ジークベルトの前に出た。
「卿。レオを」
「動かないでください」
彼は、レオを地面に下ろした。私の後ろに座らせる。
そして、腰から黒い金属の棒を抜いた。錠を壊すための、監査局の道具。
「――卿。武器は」
「これだけです」
彼は言った。
「監査官は、剣を持ちません」
男たちが、近づいてきた。
一人が、口を開いた。
「監査卿。子どもを渡せ」
「断ります」
ジークベルトは言った。
「あんたに用はない。子どもだけだ」
「聞こえませんでしたか」
彼は言った。
「断ると申し上げました」
男が、動いた。
速かった。
棒が振り下ろされる。ジークベルトが、金属棒でそれを受けた。硬い音が響いた。
――受け止めた。
でも、二人目が回り込んでくる。
「卿!」
私は、叫んだ。
二人目の男が、私のほうへ来た。
私は、レオの前に立った。
――どうする。
武器はない。逃げられない。レオは動けない。
考えろ。
私は、雪の中に手を突っ込んだ。
石を掴んだ。
男が、腕を伸ばした。
私は、石を投げた。
男の顔に当たった。布の上から。男が、一瞬止まった。
その一瞬で、私は横に飛んだ。
男の注意が、私に移る。
――そう。私を見て。
レオから、離れて。
「イレーネ嬢!」
ジークベルトの声。
男が、私に向かってきた。
私は、走った。斜面を上へ。深い雪のほうへ。
男が追ってくる。
私は、雪の深いところで足を止め、振り返った。
男が、膝まで雪に沈んだ。
――そう。
深い雪では、体重の重い者のほうが不利になる。
男が、雪から脚を引き抜こうとした。
その隙に、私は横へ回り込んだ。
男の背後。
私は、両手で男の背を押した。
男が、雪の斜面に倒れ込んだ。
そして、滑った。
斜面を、十歩ぶん。
私は、その隙に走った。ジークベルトのほうへ。
彼は、一人目と組み合っていた。
金属棒が、男の腕を打った。骨の折れる音がした。男が、悲鳴を上げた。
「――卿!」
私は、そのまま走り込んだ。
彼が、私の腕を掴んだ。
「レオを」
「はい」
私は、弟を抱き上げた。
軽い。恐ろしく軽い。
私たちは、走った。
背後で、男の声がした。
「――逃がすな!」
そのとき。
森の向こうから、蹄の音がした。
複数。多い。
私は、振り返った。
斜面の上から、騎馬が下りてくる。十騎、いや、それ以上。
先頭の旗が、雪に映えた。
白地に、北の星。
――第三王女の紋章だった。
◇
保護所に運ばれてから、レオは半日眠り続けた。
指先に凍傷があった。だが、命に別状はないと医師は言った。
ハルデン翁は、レオの部屋で見つかった。頭を殴られて、意識を失っていた。老人は三日後に目を覚まし、開口一番、こう言った。
「――坊ちゃまは」
「無事です」
私が答えると、翁は目を閉じて、それきり何も言わなかった。
涙が、皺の間を伝っていた。
◇
「――間に合いましたね」
第三王女アマーリエは、保護所の食堂に立っていた。
旅装のままだった。北部から、直接。
「殿下。なぜ、ここへ」
「アーレンス卿から、文が来ていました」
彼女は言った。
「保護所の警備が薄い、と。三日前に」
私は、ジークベルトを見た。
彼は、無表情のままだった。
「卿。あなた、殿下に」
「頼みました」
彼は言った。
「監査局が出せないなら、外から借りるしかありませんので」
私は、言葉が出なかった。
この人は、いつも。
「フォークト令嬢」
殿下が言った。
「弟君を、北部へお連れなさい」
私は、顔を上げた。
「――よろしいのですか」
「私の領地です」
彼女は言った。
「王宮の手が、いちばん届きにくい場所です」
彼女は続けた。
「それに、あなたには借りがあります」
「借り、ですか」
「十年、誰も読まなかった紙を、読ませてもらいました」
彼女は言った。
「あれで、私は動けるようになりました」
私は、深く頭を下げた。
「――殿下」
「はい」
「一つ、お願いがあります」
「なんでしょう」
「あの子を、王族として扱わないでください」
私は言った。
殿下の目が、わずかに動いた。
「――何のことでしょう」
「何でもありません」
私は言った。
「ただ、あの子は、フォークト家の次男です」
私は言った。
「それ以外の何者でもありません」
殿下は、しばらく私を見ていた。
そして、言った。
「――承知しました」




