第33話 期限の日
「――卿」
「イレーネ嬢」
彼は、私の前に立った。
こんなに近くで、こんなに強い声を出す人ではなかった。
「今の話には、証拠が一つもありません。あるのは、日付の近さだけです」
彼は言った。
「ご成婚の二か月前に、身元不明の赤子が財務局書記官の手で伯爵家に運ばれた。それだけです」
「それだけで、十分ではありませんか」
「十分ではありません」
彼は言った。
「そして、これを口にした瞬間、貴女は不敬罪です」
私は、口を閉じた。
「王族の血筋について、証拠なく言及すること。これは、王国刑法で最も重い部類に入ります」
彼は言った。
「令嬢の身分では、庇いきれません」
私は、彼を見上げた。
――この人は、怒っている。
いや、違う。
「卿。怖がっていますね」
彼の目が、わずかに動いた。
「――そうです」
彼は言った。
「怖がっています」
彼は、視線を外さずに続けた。
「イレーネ嬢。もし推測が当たっているなら、レオ様は、殿下にとって『存在してはならない子』です」
彼は言った。
「九年、生かされてきたのは、殺すより隠すほうが安全だったからでしょう。伯爵家の次男として、病弱な子として、誰にも会わせずに」
私は、息を呑んだ。
「――薬を、薄められて」
「ええ」
彼は言った。
「静かに弱っていくことは、誰にとっても都合がよかった」
私は、拳を握った。
「では、私がレオを助けたことで」
「都合が悪くなりました」
彼は言った。
「レオ様は今、歩いています。走れるようになるかもしれない。声が出て、字が読める」
彼は言った。
「『存在してはならない子』が、健康になりつつある」
――弟は返してもらう。
あの一行が、意味を変えた。
脅しではない。
処分の予告だ。
◇
その夜、私は保護所の警備を確認して回った。
監査局の官吏が四名。門に二人、建物に二人。それだけだ。
「増やせませんか」
「増やしました」
ハーゲンが言った。
「これでも倍です。局から出せるのは、ここまでです」
「では、場所を変えます」
「どこへ」
私は、答えられなかった。
王都に、安全な場所はない。第二王子の手は、王宮にも、財務局にも、薬事局にも伸びている。
「――北部は」
私は言った。
「第三王女殿下の領地です」
「王女殿下を、これ以上巻き込むのですか」
ハーゲンが言った。
「殿下は、決裁票で既に立場を賭けておられます」
「分かっています」
「フォークト嬢」
彼は言った。
「一つ、現実的な話をします。今は、動かさないほうが安全です」
「なぜ」
「移動中がいちばん危ない」
彼は言った。
「馬車が街道で襲われれば、警備四名では守れません。ここなら、石壁があります」
私は、唇を噛んだ。
――正しい。
悔しいが、正しい。
「では、明日の期限が過ぎるまで、ここに」
「そうしてください」
彼は言った。
「明日、財務局が伝票を出せば、局面が変わります」
◇
翌日。
議会の命令の期限、十日目。
私とジークベルト、ハーゲンは、王宮の議事局にいた。
財務局からの提出は、正午が期限だった。
十一時。何も来ない。
十一時半。何も来ない。
「出さないつもりでしょうか」
私は言った。
「出します」
ジークベルトが言った。
「出さなければ、議会侮辱です。次官の首が飛ぶ」
十一時五十分。
廊下に、足音がした。
扉が開いた。
文書課の職員が三人、木箱を運び込んできた。
三箱。
議事局の書記官が、受領印を押した。
「――正午、五分前」
ハーゲンが呟いた。
「嫌がらせですな」
私は、木箱に近づいた。
蓋が開けられた。
中に、伝票の綴りが入っていた。
私は、一冊を取り上げた。
――薄い。
開いた。
支出伝票。日付、金額、支出先、承認印。
私は、頁をめくった。
五年分。二十件。
全部あった。
金額も、日付も、王立銀行の払出記録と一致している。
――一致している。
「卿」
私は、顔を上げた。
「改竄されていません」
「――なんですと」
ジークベルトが、綴りを覗き込んだ。
彼は、二枚、三枚とめくった。
「本物です」
彼は言った。
「銀行記録と完全に一致します」
私は、綴りを机に置いた。
――なぜだ。
なぜ、素直に出した。
「ハーゲン様」
「はい」
「承認印を見てください」
私は言った。
二十件の支出伝票。その承認欄。
私は、一枚ずつ確かめた。
――ラインヴァルト。
――ラインヴァルト。
――ラインヴァルト。
全部だ。
二十件すべてに、財務局次官ゴットハルト・ラインヴァルトの印が押されていた。
「――綺麗すぎます」
ジークベルトが言った。
「はい」
私は言った。
「一つも、隠していない」
私は、綴りを閉じた。
「切られましたね」
「――誰が、誰を」
「殿下が、次官を」
私は言った。
「これは、ラインヴァルト卿一人に全部かぶせるための、提出です」
◇
その日の午後、王宮から発表があった。
――王国財務局次官ゴットハルト・ラインヴァルトを、職務停止とする。
――貧民施設向け薬品補助金に関する疑義について、王宮監察部が調査を開始する。
発表は、第二王子アルベルトの名で出された。
私は、その掲示を王宮の門前で読んだ。
人だかりができていた。新聞記者が走り回っている。
――殿下は、切った。
自分の従兄を、あっさりと。
「フォークト嬢」
ハーゲンが、隣で言った。
「これは、我々の勝ちですか」
「――半分は」
私は言った。
「補助金の詐取は明るみに出ました。次官は失脚します。ケラー商会は潰れ、薬は正しく届いている」
「では、残る半分は」
「九千ゴルドの行き先です」
私は言った。
「薬事局の特別会計から、八百行に分けて出ていった金。あの先に誰がいるのか。それを次官一人の罪にすれば、そこで終わります」
私は、掲示を見た。
「そして――レオのことも、終わります」
◇
保護所へ戻ったのは、夕方だった。
馬車を降りると、空気が違った。
門番がいない。
私は、走った。
「レオ!」
建物に飛び込んだ。
食堂に、人が倒れていた。監査局の官吏だ。頭から血を流している。生きている。うめき声が聞こえた。
「ハーゲン様! 人を!」
私は、廊下を駆けた。
レオの部屋。
扉が、開いていた。
中は、空だった。
寝台の掛布が、床に落ちている。
私は、その場に立ち尽くした。
「――イレーネ嬢」
背後から、ジークベルトの声。
「グレーテルは」
「厨房に、倒れています。息はあります」
「ハルデン翁は」
「――見当たりません」
私は、部屋を見回した。
窓が、割れていた。
外から割ったのではない。硝子の破片が、外側に散っている。
――内側から割った。
私は、窓に駆け寄った。
庭に、破片が散らばっている。その先に、雪の上の足跡。
小さい足跡。裸足。
そして、大人の足跡が、それを追っている。
「レオが、逃げました」
私は言った。
「窓を割って、外へ」
ジークベルトが、足跡を見た。
「――追われています」
「はい」
「イレーネ嬢、ここは私が」
「行きます」
私は、窓枠に手をかけた。
「イレーネ嬢!」
「あの子は、私が迎えに行くと約束しました」
私は言った。
「今度こそ、守ります」
私は、窓から飛び降りた。
雪が、膝まであった。




