第32話 もう一人の九歳
「同じ年です」
私は言った。
「レオと、同じ年に生まれています」
書斎の机に、二枚の紙が並んでいた。
左に、レオの出生届の写し。四百二十年、第七の月。届出人、フォークト伯爵。母の欄、空白。
右に、カール・ベルクマンの叙爵記録。四百二十三年。生年、四百二十年。
「フォークト嬢」
ハーゲンが言った。
「落ち着いて聞いてください。同じ年に生まれた子どもは、王国に何千人もいます」
「分かっています」
「偶然かもしれない」
「分かっています」
私は言った。
「でも、その何千人のうち、王国薬事局の特別会計から金を受け取っているのは、一人です」
ジークベルトが、記録をめくった。
「ベルクマン宛の支出、二十一回。四百二十四年から。合計は」
「三百六十ゴルドです」
私は言った。
「年に六十ゴルド前後。名目は『調査委託費』」
「三歳から金を受け取る調査委託」
彼は言った。
「養育費ですね」
私は、頷いた。
「ハーゲン様。このカール・ベルクマンは、今どこにいますか」
「調べました」
彼は言った。
「王都の南、ベルクマン男爵邸。旧邸ではなく、四百二十三年に新たに購入された屋敷です」
「同居しているのは」
「後見人が一名。乳母が一名。使用人が四名」
彼は言った。
「後見人の名は――アデーレ・ベルクマン」
私は、動きを止めた。
「継母の、名です」
「旧姓で登録されています」
ハーゲンは言った。
「フォークト伯爵夫人アデーレと同一人物かどうかは、書類上は確認できません。ですが」
「同一人物です」
私は言った。
継母は、逃げた。
どこへ行くとは書かなかった。私が知れば、私が吐かされるから、と。
――王都の南に、いたのか。
「フォークト嬢」
ハーゲンが言った。
「一つ、確認させてください。伯爵夫人には、弟が三人いると」
「はい」
「その三人のうち、末の弟は」
私は、記憶を辿った。
「――名前は、聞いていません」
ハーゲンが、書類をめくった。
「ベルクマン男爵家の家族記録です。四百十八年の破産時点。当主、その妻、長女アデーレ、長男フリードリヒ、次男オットー、三男カール」
私は、息を呑んだ。
「三男、カール」
「はい」
彼は言った。
「生年、四百十年。破産時に八歳」
私は、頭の中で計算した。
「――今、十九歳です」
「そうです」
ハーゲンは言った。
「叙爵されたカール・ベルクマンは、四百二十年生まれの九歳。同名ですが、別人です」
「では、なぜ同じ名を」
「継承の体裁を整えるためでしょう」
彼は言った。
「三男カールが十九歳で健在なのに、九歳の別人にベルクマン男爵位が与えられている。これは、家名だけを借りたということです」
私は、二枚の紙を見た。
――九歳の男爵。
母の欄が空白の、九歳の弟。
◇
「行きます」
私は立ち上がった。
「イレーネ嬢」
ジークベルトが、私を見た。
「どこへ」
「ベルクマン男爵邸です」
「なぜ」
「その子を、見たいからです」
私は言った。
ジークベルトは、しばらく黙っていた。
「――理由を、もう一度」
彼は言った。
「今のは、理由ではありません」
私は、椅子の背を掴んだ。
「……卿」
「はい」
「私は今、こう考えています」
私は言った。
「レオと、その子は、入れ替えられたのではないか、と」
部屋が、静かになった。
「四百二十年に、二人の子が生まれた。一人はフォークト家に、母の欄を空白にして届けられた。もう一人は、三年後に潰れた家の名前を与えられて、男爵にされた」
私は言った。
「どちらかが、誰かの子です」
「どちらかが」
「はい」
私は言った。
「そして『弟は返してもらう』という文は――どちらの子について書かれたのか、分かりません」
ジークベルトが、立ち上がった。
「イレーネ嬢。行くなら、私も行きます」
「卿は、期限の対応が」
「期限は明後日です」
彼は言った。
「今日は、まだ動けます」
◇
ベルクマン男爵邸は、小さな屋敷だった。
王都の南、城壁の内側。二階建ての、白い壁の家。庭に木が三本。門は開いていた。
私たちは、馬車を離れた場所に止めた。
「監査局の名で入りますか」
ハーゲンが言った。
「入れます。薬事局の特別会計から金が出ている以上、支出先として監査対象です」
「――待ってください」
私は言った。
「まず、見ます」
私は、門の外から中を覗いた。
庭に、人がいた。
小さな人影が、木の下にしゃがんでいる。
子どもだ。
私は、目を凝らした。
男の子だった。九歳くらい。栗色の髪。細い肩。しゃがんで、地面の何かをじっと見ている。
顔が、見えなかった。
その子の横に、女が立っていた。
黒いショールを、被っていた。
――継母だ。
私は、門柱に手をついた。
継母は、子どもの横にしゃがんだ。何か話しかけている。子どもが顔を上げて、笑った。
その笑い方を、私は知っていた。
――少し、遅れて笑う。
私の膝が、震えた。
「イレーネ嬢」
ジークベルトが、私の背を支えた。
「――卿」
私は言った。
「あの子は」
そのとき、継母が顔を上げた。
門のほうを見た。
目が、合った。
彼女は、立ち上がった。
子どもに何か言って、屋敷のほうへ促す。子どもは素直に立ち上がり、走っていった。
走った。
――走れる子だ。
継母は、門へ歩いてきた。
黒いショールが、風で揺れた。
「――来たのね」
彼女は言った。
「イレーネ」
「お義母様」
私は言った。
「あの子は、誰ですか」
継母は、しばらく私を見ていた。
それから、門を開けた。
「入りなさい」
◇
応接間は、質素だった。
継母は私たちを座らせ、自分でお茶を淹れた。使用人を呼ばなかった。
「アーレンス卿。ハーゲン監査官」
彼女は言った。
「監査の対象として来られたのなら、記録を全部お渡しします。隠すものはありません」
「では、伺います」
ハーゲンが言った。
「カール・ベルクマン男爵は、何者ですか」
「私の甥です」
「甥」
「兄の子です」
彼女は言った。
「フリードリヒ。長男。四百十九年に、王都の縫製工房で働いていた女と間に子ができました」
彼女は、茶碗を置いた。
「家は潰れていました。兄は無職でした。女は子を産んで、産褥で死にました」
「――では、なぜ叙爵を」
「私が、ラインヴァルト卿に頼んだからです」
継母は言った。
「あの子に、家名を。そうすれば、生きていける」
「見返りは」
「私が、フォークト家の帳簿から金を抜くことです」
彼女は言った。
あっさりと。
部屋が、静かになった。
「――お義母様」
私は言った。
「あの子の笑い方が、レオと同じでした」
継母が、私を見た。
「遅れて笑うのですね」
「――ええ」
彼女は言った。
「兄も、そうでした」
私は、息を吐いた。
膝の力が、抜けた。
――違った。
あの子は、レオではない。入れ替わってもいない。
似ていたのは、血縁だ。継母の兄の子と、継母の兄。それだけの話。
「では、レオは」
私は言った。
「レオの母は、誰ですか」
継母は、茶碗を持ち上げた。
そして、置いた。
「――知らないわ」
彼女は言った。
「本当に。私が嫁いだのは四百十七年。レオが来たのは四百二十年の夏よ」
「来た」
「そう。生まれたのではなく、来たの」
彼女は言った。
「ある日、屋敷に赤ん坊が届いたの。夫が、これは自分の子だと言った。私は信じなかったけれど、そういうことにした」
私は、身を乗り出した。
「誰が、届けたのですか」
「――ラインヴァルト卿よ」
彼女は言った。
「あの人が、自分で抱いて来た」
◇
馬車の中で、誰も喋らなかった。
王都の通りを、夕日が斜めに射している。
「――ハーゲン様」
私は言った。
「はい」
「ラインヴァルト次官には、子がいますか」
「妻はおりますが、子はおりません」
彼は言った。
「そこは、確認済みです」
「では」
私は言った。
「あの人が抱いて来た子は、誰の子ですか」
ジークベルトが、口を開いた。
「イレーネ嬢」
「はい」
「四百二十年、王宮で何があったかを、ご存じですか」
私は、記憶を探った。
「――九年前です。私は八つでした」
「第二王子アルベルト殿下が、ご成婚された年です」
彼は言った。
私の指先が、冷たくなった。
「ご成婚は、四百二十年の第九の月」
彼は言った。
「レオ様の出生届は、第七の月」
馬車が、揺れた。
「二か月前です」




