第31話 空白の欄
その問いが、頭の中で回り続けていた。
考えてはいけない、と思った。考えたところで、あの子は私の弟だ。九年、そう思って生きてきた。あの子の熱を測り、薬を飲ませ、木彫りの馬を買ってやった。それは変わらない。
変わらないのに、心臓が重い。
「イレーネ嬢」
向かいの席から、ジークベルトが言った。
「一つ、申し上げておきます」
「はい」
「出生の記録は、事実の一部です。全部ではありません」
彼は言った。
「誰の腹から生まれたかは、その人が誰であるかの、ほんの一行です」
私は、彼を見た。
「――卿。慰めていますか」
「事実を述べています」
彼は言った。
「私は十四で父を失い、母を失い、妹と離れました。十年後に再会したとき、妹は私を兄と呼びませんでした。育てた家の姓を名乗っていました」
彼は淡々と言った。
「血は繋がっています。ですが、私はあの子の兄ではありませんでした。十年、何もしなかったからです」
彼は、窓の外を見た。
「――貴女は、九年やってきた」
私は、膝の上で手を組んだ。
「卿」
「はい」
「今の話、慰めですよね」
「……そうかもしれません」
彼は、少しだけ間を置いて言った。
「不慣れなもので」
◇
保護所に着くと、レオが庭にいた。
毛布を肩にかけて、ハルデン翁と並んで座っている。私を見つけると、手を振った。
「姉上! 今日、二十五歩あるいた」
「すごいわね」
「じいちゃんが、来月には階段って言った」
私は、弟の隣に座った。
弟。
――弟だ。
九歳の子どもが、毛布から手を出して、木彫りの馬の話をしている。
「姉上、馬は?」
「ここにあるわ」
私は、懐から木彫りを出した。
「まだ勝ってないの。だから、まだ借りてる」
「ふうん」
レオは、私の手の中の馬を見た。
「ねえ姉上」
「なあに」
「ぼく、お父様のお葬式、行けなかったね」
私は、動きを止めた。
「――そうね」
「行きたかった」
レオは言った。
「ぼく、お父様の顔、あんまり覚えてないんだ」
私は、弟の横顔を見た。
この子は、父の部屋に入れてもらえなかった。父が寝込んでいたからだと、私はずっと思っていた。
――違うのかもしれない。
父は、この子を見たくなかったのかもしれない。
「レオ」
「なあに」
「あなた、寂しかった?」
弟は、少し考えた。
「うーん」
彼は、毛布を引き寄せた。
「姉上がいたから」
◇
その夜、私は書斎で、ジークベルトとハーゲンに向き合った。
「整理します」
私は言った。
「議会の命令で、財務局は十日以内に支出伝票を出さなければなりません。期限まで、あと六日」
「はい」
「その六日で、向こうがやることは三つ。伝票の改竄、紛失、そして動議の取り下げ要求」
私は言った。
「私を動かすために、レオを使う気配があります。ですが、レオの出生については、まだ何も分かっていません」
「そこは、私が調べます」
ハーゲンが言った。
「王宮書記局に、四百二十年前後の出生届の記録が残っています。フォークト家以外にも、母の欄が空白のものがあるかどうか」
「他にもある可能性が」
「あります」
彼は言った。
「一件だけ空白なら、便宜です。何件もあるなら、制度です」
私は頷いた。
「では、私は伝票のほうを」
「イレーネ嬢」
ジークベルトが言った。
「伝票は、財務局が出してきます。我々が取りに行くものではありません」
「取りに行くのではありません」
私は言った。
「先に、答えを用意しておきます」
「――どういうことですか」
「向こうは、伝票を改竄して出してくると思います」
私は言った。
「そのとき、私たちが『これは改竄だ』と言うだけでは、水掛け論になります」
「では」
「改竄されていない別の記録と、突き合わせます」
私は、机に紙を広げた。
「支出伝票には、必ず対になる記録があります。銀行の払出記録です」
ジークベルトの目が、細くなった。
「王国の支出は、王立銀行を通ります」
「はい」
私は言った。
「財務局が伝票を切り、王立銀行が払い出す。銀行には、払出の記録が残ります」
「銀行の記録は、財務局の管轄外」
「そうです」
私は言った。
「改竄するなら、銀行の記録も同時に直さなければなりません。それは、財務局だけではできません」
ハーゲンが、身を乗り出した。
「フォークト嬢。王立銀行の記録は、監査局が請求できます。予算執行に関わる記録ですので」
「では、今日中に請求してください」
私は言った。
「向こうが伝票を出す前に」
◇
王立銀行の払出記録は、二日後に届いた。
五年分。厚さは、私の腕ほどあった。
私は、それを一枚ずつ照合していった。
補助金の支出は、年に四回。五年で二十回。それだけを抜き出せばいい。
半日で、二十件が揃った。
「――卿」
私は、顔を上げた。
「妙です」
「何が」
「払出先が、ケラー商会ではありません」
私は、記録を指した。
「二十件のうち、十二件が『王国薬事局 特別会計』宛です」
ジークベルトが、記録を覗き込んだ。
「薬事局を経由している」
「はい。残る八件が、ケラー商会宛」
私は言った。
「金額を見てください。商会宛の八件が、合計一万一千四百ゴルド」
「商会が受領したと記録している額と、一致する」
「はい」
私は、指を移した。
「薬事局特別会計宛の十二件が、合計九千ゴルド」
部屋が、静かになった。
「――消えた九千は、薬事局に入っていた」
「はい」
私は言った。
「そして、薬事局の特別会計から、その先へ出ています。そこは、薬事局の帳簿を見ないと分かりません」
ハーゲンが、立ち上がった。
「薬事局には、入れます」
「入れます」
私は言った。
「でも、また空の棚かもしれません」
◇
薬事局の特別会計簿は、あった。
保管庫ではなく、会計課の執務室に。日常的に使う帳簿だから、移送されていなかった。
ハーゲンが押収し、その日のうちに保護所へ運ばれた。
私は、燭台を三本立てて、それを開いた。
夜が更けていった。
薬事局特別会計。収入と支出。
収入の欄に、あった。年に二回か三回、まとまった額が入っている。五年で九千ゴルド。
では、支出は。
私は、頁をめくった。
――細かい。
異常に細かかった。
備品費、消耗品費、旅費、会議費、印刷費。ひとつひとつが、三ゴルドや五ゴルドの単位で並んでいる。
五年分で、支出の行数は、八百を超えていた。
「――巧妙です」
ジークベルトが、横から言った。
「九千ゴルドを、八百に割っています。一件あたり平均十一ゴルド」
「はい」
「小さい額は、誰も追いません」
「――そうですね」
私は言った。
「でも、追えます」
私は、羽ペンを取った。
「イレーネ嬢。八百行を、一つずつ検証するのですか」
「いいえ」
私は言った。
「そんな時間はありません。期限まで四日です」
私は、白紙を引き寄せた。
「支出先の名前だけを、抜き出します」
「名前」
「はい」
私は言った。
「八百行あっても、支出先の数はもっと少ないはずです。同じ相手に何度も払っているはずですから」
私は、頁をめくり始めた。
名前を書き出す。同じ名前が出てきたら、正の字を足す。
一刻。二刻。
夜明け前に、書き終えた。
支出先は、五十七。
私は、回数の多い順に並べ替えた。
一位、王都印刷組合。八十二回。
二位、ヴァイス商会。六十四回。
三位、ホルツ工房。五十一回。
私は、上から順に見ていった。
そして、二十三番目で、手が止まった。
――ベルクマン。二十一回。
私は、その名前を見つめた。
「卿」
「はい」
「ベルクマン男爵家は、継母の実家です」
ジークベルトが、記録を覗き込んだ。
「潰れたのでは」
「潰れました」
私は言った。
「継母が嫁いだ二年後、四百十八年に。でも、この支出は四百二十四年から始まっています」
私は、指を置いた。
「潰れた家に、王国の金が、二十一回入っています」
◇
朝、ハーゲンが調べに出た。
昼過ぎに戻ってきた彼の顔は、蒼白だった。
「フォークト嬢」
「どうでした」
「ベルクマン男爵家は、四百十八年に破産しています。当主は死亡。家督は継承されず、爵位は返上」
彼は言った。
「ですが、四百二十三年に、家名が再興されています」
「――再興?」
「王国は、断絶した家名を、功績のある者に与えることがあります」
彼は言った。
「四百二十三年、ベルクマン男爵位が、新たに授けられました」
「誰に」
ハーゲンは、書類を差し出した。
私は、それを読んだ。
そして、読み返した。
――ベルクマン男爵 カール・ベルクマン。
叙爵時、三歳。
私は、顔を上げた。
「三歳?」
「はい」
「三歳の子どもに、爵位を」
「異例です」
ハーゲンは言った。
「ですが、前例がないわけではありません。王族の落胤に、家名を与えて臣籍に降ろすことがあります」
私は、書類を握りしめた。
「――この子は、今、何歳ですか」
「四百二十年生まれ」
ハーゲンは言った。
「今年で、九歳です」




