第30話 十年前の部屋
ローゼンタール侯爵は、六十二歳だった。
王宮の監察室で、私はその男を初めて間近に見た。ヴィルヘルムに似ていない。息子は母親似なのだろう。侯爵は骨ばった顔の、目の落ちくぼんだ老人だった。
同席を許されたのは、第三王女の指示だった。殿下は言った。「当事者が聞くべきです」と。
監察官が三名、ジークベルト、ハーゲン、書記が二名。そして私。
「――お名前を」
「ヴォルフガング・ローゼンタール」
侯爵は答えた。
声が、かすれていた。
「本日、貴殿は自らの意思で出頭し、証言を申し出ました。相違ありませんか」
「相違ない」
「では、始めてください」
侯爵は、しばらく黙っていた。
そして、私を見た。
「――令嬢」
私は、身構えた。
「あなたに、一つだけ言っておく。私は謝罪しない」
「結構です」
私は言った。
「謝罪より、事実をいただきたい」
侯爵の口の端が、わずかに動いた。
「エルフリーデ様と同じことを言う」
◇
「王暦四百十六年、私は財務局の一等書記官ラインヴァルトから、話を持ちかけられた」
侯爵は語り始めた。
「貧民施設向けの薬品補助金。ここは誰も見ていない。数字を膨らませても、誰も文句を言わない」
「なぜ、貴殿に話が来たのですか」
「ケラー商会が、うちの領内の商会だったからだ」
彼は言った。
「私は、間に立った。財務局が申請額を膨らませ、薬事局が通し、商会が受け取る。差額は三分する」
「三分」
「ラインヴァルト、私、そしてヴァイマー審査官」
彼は言った。
「五年で、私の取り分は千八百ゴルドほどだ」
書記のペンが、走った。
「ですが」
ジークベルトが言った。
「侯爵家が商会に払った四百ゴルドの『調査費』は、逆の流れです」
「あれは、口止め料だ」
侯爵は言った。
「商会の代表は何も知らんが、番頭のモーゼルは知っていた。あの男が喋らんように、毎年払っていた」
「話を戻します」
監察官が言った。
「エルフリーデ夫人の件を」
侯爵は、目を閉じた。
「――四百十九年の秋だ」
彼は言った。
「フォークト伯爵夫人から、財務局に照会状が届いた。ラインヴァルトが握りつぶした。だが、あの女は諦めなかった」
私の指が、冷たくなった。
「夫人は、聖アグネス救貧院に寄進をしていた。そこから薬の質の話を聞いていた。そして、自分で数え始めた」
彼は言った。
「あなたと同じだ、令嬢」
「――続けてください」
「ラインヴァルトは、私に始末を頼んだ。隣領のよしみで、話をつけろと」
侯爵は言った。
「私は、四百十九年の第十一の月に、フォークト家を訪ねた。木箱を持っていった。中には、財務局の内部文書を入れた」
「なぜ、証拠を渡したのですか」
「取引のためだ」
彼は言った。
「これを渡す。だから黙れ、と。証拠を持っていることが、あなたを守る、と言った」
彼は続けた。
「実際、そういう取引はある。証拠を持つ者は、殺しにくい。死ねば証拠が出るからな」
「夫人は、なんと」
侯爵は、目を開けた。
「――断られた」
彼は言った。
「『これはお預かりします。ですが、黙りません』と」
私は、机の下で手を握った。
母の声が、聞こえた気がした。
「私は、こう言った。ならば、あなたは死ぬ、と」
侯爵は言った。
「夫人は、こう答えた」
彼は、私を見た。
「――『では、娘に続きを書かせます』」
私の視界が、揺れた。
息が、できなかった。
――母様。
七つだった。私は、七つだった。
あの人は、七つの娘に、続きを書かせると言ったのか。
「令嬢」
侯爵が言った。
「私は、あの言葉が忘れられん」
彼は言った。
「十年、忘れられんかった」
◇
「その後、何が起きましたか」
監察官が問うた。
「私は、ラインヴァルトに報告した。説得は失敗した、と」
侯爵は言った。
「翌月、夫人は倒れた」
「貴殿が手を下したのですか」
「――していない」
彼は言った。
「本当だ。私は、そこまではやっていない」
「では、誰が」
侯爵は、しばらく黙っていた。
「ケラー商会に、特別調合薬を注文した者がいる」
彼は言った。
「二十ゴルド。フォークト家からの支払として記録されている」
ジークベルトが、書類をめくった。
「その支払を指図したのは」
「――フォークト伯爵だ」
私は、椅子から立ち上がりかけた。
ジークベルトの手が、私の腕を押さえた。
「フォークト伯爵が、夫人に毒を」
「知っていたかどうかは、分からん」
侯爵は言った。
「ラインヴァルトが伯爵に何を言ったのかも、私は知らん。ただ、支払指図書に伯爵の印がある」
私は、座り直した。
――父。
十年、寝台から出なかった人。母の書いたものを全部燃やした人。私を見なくなった人。
――怖かったんですね。
あの日、私は父の手を握って、そう言った。
怖かったのではない。
罪だったのだ。
「侯爵」
私は、口を開いた。
声が、自分のものと思えなかった。
「父は、母が死んだあと、十年寝ていました」
「知っている」
「病だと聞いていました」
「病だろう」
侯爵は言った。
「そういう病もある」
◇
「――もう一点、伺います」
ジークベルトが言った。
「なぜ、今になって自首されたのですか」
侯爵は、初めて視線を落とした。
「息子だ」
「ローゼンタール子息が、何か」
「あれは、私が育て損なった」
彼は言った。
「頭は悪くない。だが、自分で決められん。誰かに言われたことを、上手にやる。それだけの男だ」
彼は言った。
「監査局に呼ばれてから、あれは毎晩眠れずにいる。先週、私に言った。『父上、私はどうなるのですか』と」
彼は、拳を握った。
「三十を過ぎた男が、父親に聞くのだ」
沈黙が落ちた。
「私が全部かぶれば、あれは従犯で済む」
侯爵は言った。
「爵位は残る。それだけだ」
私は、その顔を見ていた。
――この人も、家族のために動いている。
継母もそうだった。ベルガーもそうだった。
誰もが、誰かのために、悪いことをする。
それでも。
「侯爵」
私は言った。
「私の母も、娘のために黙りませんでした」
彼は、顔を上げた。
「同じ理由から、逆のことが出てきます」
私は言った。
「私は、あなたを許しません」
◇
監察室を出たあと、ジークベルトが言った。
「イレーネ嬢。一点、確認しておきたいことがあります」
「はい」
「侯爵は、弟君について何も言いませんでした」
私は、足を止めた。
――『弟は返してもらう』
あの文。
「侯爵が出したのではない、ということですか」
「そう思います」
彼は言った。
「侯爵は、自首を決めていた。今さら脅す理由がない」
「では、誰が」
彼は答えなかった。
代わりに、こう言った。
「イレーネ嬢。弟君の母君は、どなたですか」
私は、動きを止めた。
「――え?」
「レオ様は、九歳です。エルフリーデ夫人が亡くなったのは十年前」
彼は言った。
「計算が合いません」
私は、立ち尽くした。
――そうだ。
なぜ、今まで考えなかった。
レオは、私の八つ下だ。母が死んだとき、私は七つだった。母は妊娠していなかった。
レオは、母の子ではない。
私は、ずっと弟だと思ってきた。父の子で、私の弟。母が違うことは知っていた。継母が来る前に生まれた子だから、誰の子かは――
「卿」
私は言った。
「私、聞いたことがありませんでした」
「誰にも」
「誰にも」
私は言った。
「屋敷では、誰もその話をしませんでした。父も、継母も、使用人も」
ジークベルトは、静かに言った。
「イレーネ嬢。私は、北部でもう一つ調べたことがあります」
「――何を」
「フォークト家の出生記録です」
彼は言った。
「レオ様の出生届は、王暦四百二十年、第七の月。届出人はフォークト伯爵。母の欄は――」
彼は言った。
「空白です」
私は、息を呑んだ。
「空白のまま受理されるのですか」
「通常はされません」
彼は言った。
「されたのは、受付をした官吏が便宜を図ったからです」
私は、その先を、聞きたくなかった。
でも、聞かなければならなかった。
「受付をしたのは」
「――ゴットハルト・ラインヴァルト」
彼は言った。
「当時、財務局一等書記官。出生届は本来、王宮書記局の管轄です。財務局の書記官が扱う理由はありません」
私は、壁に手をついた。
母が死んだのが、四百十九年の第十二の月。
レオが生まれたのが、四百二十年の第七の月。
七か月。
「卿」
「はい」
「レオは、誰の子ですか」
ジークベルトは、私を見た。
「分かりません」
彼は言った。
「ですが、『返してもらう』と書いた人間は、知っています」




