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巻き戻った令嬢の帳簿には、私を殺した全員の名前が載っている  作者: やまご


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第29話 差し出すという誘惑

 保護所は、無事だった。


 深夜に馬を飛ばして着いたとき、灯りがついていた。門番の官吏が二人、いつもどおり立っていた。


 私は馬を降り、走った。


 レオは、寝ていた。


 寝台の上で、掛布を蹴飛ばして、口を開けて。木彫りの馬は、私が持っているから、代わりに枕を抱えていた。


 私は、その場に座り込んだ。


「――お嬢様」


 グレーテルが、後ろから言った。


「今日は、何もございませんでした」


「そう」


「文のことは、アーレンス卿から伺いました」


 老執事は言った。


「警備を倍にすると」


 私は、弟の寝顔を見ていた。


 ――弟は返してもらう。


 あの一行は、脅しだ。実際に攫うつもりなら、予告はしない。


 予告するのは、私を動かしたいからだ。


 分かっている。分かっているのに、心臓が鳴りやまない。


    ◇


「文は、筆跡鑑定に回しました」


 翌朝、ジークベルトが保護所に来た。


「結果は」


「出ません。定規で書いています。筆跡の特徴を消すために」


 彼は言った。


「紙と、インクは調べます。時間がかかります」


「では、誰が出したかは」


「分かりません」


 彼は言った。


「ですが、目的は分かります」


 私は、彼を見た。


「イレーネ嬢。財務局は、十日以内に支出伝票を出さなければなりません」


「はい」


「十日のうちに、彼らがやることは三つです」


 彼は指を立てた。


「ひとつ。伝票を改竄する。ふたつ。伝票を紛失したことにする。みっつ」


 彼は、私を見た。


「動議を取り下げさせる」


 私の背が、冷たくなった。


「――取り下げ」


「動議を出したのは、貴女です」


 彼は言った。


「提出者が撤回すれば、命令は失効します。議事規則にあります」


 私は、拳を握った。


 ――そういうことか。


 弟を返してもらう、という一行は、脅しですらなかった。


 取引の提示だ。


 弟か、動議か。


「卿」


「はい」


「私は、取り下げません」


「そうでしょうね」


 彼は言った。


「ですが、迷ってはいますね」


 私は、答えられなかった。


「――迷わない人間は、いません」


 彼は言った。


「迷ってください。ただし、一人で決めないでください」


    ◇


 三日が過ぎた。


 何も起きなかった。


 それが、いちばん恐ろしかった。


 私は保護所に留まり、レオと過ごした。弟は、この三日で三度、庭を歩いた。ハルデン翁が横についていた。


「じいちゃん、あと何歩?」


「二十歩じゃ。昨日より五歩多い」


「ぼく、来月には走れる?」


「走れるかもしれん。走らんかもしれん」


 老薬師は、正直に答えた。


「じゃが、歩ける」


 私は、それを窓から見ていた。


 ――この子は、生きている。


 三年後、この子は死んだ。ひと月前に死んだと、継母は処刑台の下で笑った。


 私は、その未来を変えた。


 変えた。


 なのに、また同じところに立っている。


 弟を守るために、黙るかどうか、という場所に。


    ◇


 四日目の夜、私は書き置きを書いた。


 ――卿へ。


 ――私は、動議を取り下げます。


 ペンを止めた。


 消した。


 もう一度書いた。


 ――卿へ。私は、屋敷へ戻ります。レオを、しばらく保護所に置いてください。


 消した。


 三度目。


 ――卿へ。私が消えれば、動議は残ります。提出者が不在なら、撤回できません。


 私は、その一行を見つめた。


 ――これだ。


 私が死ねば、動議は撤回されない。財務局は十日以内に伝票を出さなければならない。委員会は動く。殿下が動く。ハーゲンが動く。ジークベルトが動く。


 そしてレオは、返してもらう理由がなくなる。私がいなければ、人質の意味がない。


 私は、ペンを置いた。


 ――綺麗な計算だ。


 そう思った瞬間、背筋が凍った。


 私は今、自分が死ぬ計算をしている。


 三年後の牢の中で、私がしていたのと、まったく同じことを。


 あのときも、私は計算した。私が罪を認めれば、家が守られる。レオが守られる。私一人の首で、全部が収まる。


 ――そして、レオは死んだ。


 私は、紙を握りつぶした。


 両手で顔を覆った。


 なぜだ。


 なぜ、同じことを考える。


 私は一度死んだ。死んで、自己犠牲が何も守らないことを、身をもって知った。


 知っているのに、また同じ場所に立っている。


 ――それでも、これが一番早い。


 頭の中で、声がした。


 私の声だった。


 ――一番早くて、一番確実だ。


    ◇


 扉が、叩かれた。


 私は、慌てて紙を隠した。


「――どうぞ」


 ジークベルトだった。


 彼は部屋に入り、机の上を見た。


 握りつぶした紙が、燭台の脇にあった。


 彼は、それを見た。


 そして、何も言わずに椅子に座った。


「イレーネ嬢」


「はい」


「一つ、報告があります」


「――はい」


「本日、ローゼンタール侯爵家に監査局が入りました」


 私は、顔を上げた。


「なぜ」


「フォークト伯爵家への融資契約について、届出額と提出額の齟齬。監査妨害です」


 彼は言った。


「三か月前に、私が通告していた案件です。北部へ行くときに、ハーゲンへ引き継いでおきました」


「――卿。あなた、三か月前から」


「手を打っておきました」


 彼は言った。


「戻れないかもしれませんでしたので」


 私は、言葉が出なかった。


「侯爵家の帳簿から、ケラー商会宛の支払記録が出ました。五年で四百ゴルド。名目は『調査費』」


 彼は言った。


「侯爵家は、商会に金を払っていました。買っていた側です」


「何を買っていたのですか」


「――おそらく、沈黙です」


 彼は言った。


 私は、母のことを思った。


 十年前、侯爵は母に木箱を渡した。そして母は死んだ。


「卿。侯爵は、母のことを」


「まだ分かりません」


 彼は言った。


「ですが、道は繋がりつつあります」


 彼は、机の上の紙に目をやった。


「イレーネ嬢」


「はい」


「その紙を、読ませていただけますか」


 私は、動きを止めた。


「――これは」


「読ませてください」


 私は、しばらく動けなかった。


 それから、紙を広げて、彼に渡した。


 彼は、読んだ。


 三行を、二度読んだ。


 そして、机に置いた。


「――イレーネ嬢」


「はい」


「これは、よくできた計算です」


 彼は言った。


「貴女が消えれば、動議は残る。弟君は人質の価値を失う。財務局は伝票を出さざるを得ない。合理的です」


 私は、うつむいた。


「――はい」


「ですが、一つ、変数が抜けています」


 私は、顔を上げた。


「なんですか」


「私です」


 彼は言った。


「――え?」


「貴女が消えたあと、私がどう動くか。それが計算に入っていない」


 彼は、まっすぐ私を見た。


「イレーネ嬢。貴女が死ねば、私はこの監査を続けられません」


「なぜ」


「続けます。手続きとしては続けます」


 彼は言った。


「ですが、私は二十年、この仕事をやってきて、一度も判断を誤らなかったわけではありません。誤るときは、いつも、感情が入ったときです」


 彼は言った。


「貴女が死ねば、私は感情で動きます。動けば、必ずどこかで判断を誤る」


 私は、息を止めた。


「貴女は、私を計算から外しました」


 彼は言った。


「外していい人間だと思ったからです」


「――違います」


「では、なぜ外したのですか」


 私は、答えられなかった。


「イレーネ嬢」


 彼は言った。


「私は、父を監査で失いました。父は、自分が消えれば家族が守られると考えました」


 彼は、淡々と言った。


「家族は守られませんでした。私の母は、二年後に亡くなりました。妹は、遠縁に引き取られて、私は十年会えなかった」


 彼は続けた。


「差し出した命は、誰も守りません。ただ、残った者の中に穴を開けるだけです」


 私は、両手で顔を覆った。


 ――知っている。


 私が、いちばん知っている。


 三年後、私は差し出した。差し出して、レオは死んだ。


「――卿」


 声が、崩れた。


「私、また同じことをしようとしました」


「ええ」


「一度失敗したのに。分かっていたのに」


「分かっていても、そうなります」


 彼は言った。


「それは、貴女が弱いからではありません」


 彼は続けた。


「守りたいものがある人間は、全員そうなります。私も、そうでした」


 私は、顔を上げた。


 視界が、滲んでいた。


「では、どうすればいいのですか」


「一人で決めないことです」


 彼は言った。


「それだけです。それしかありません」


 彼は、紙を取り上げた。


 そして、二つに裂いた。


 もう一度裂いて、燭台の火に近づけた。


 紙が、燃えた。


「イレーネ嬢」


「はい」


「弟君は、私が守ります」


 彼は言った。


「私が守れなければ、ハーゲンが守ります。ハーゲンが守れなければ、殿下が守ります」


 彼は、灰を皿に落とした。


「一人ではありません。もう」


 私は、机に突っ伏した。


 声を上げて泣いた。


 三年ぶりだった。


 ――いや。


 三年と、七か月ぶりだった。


    ◇


 朝、私は目を腫らしたまま、書斎に行った。


 ジークベルトは、まだそこにいた。徹夜したらしい。


「――卿。お休みになっていないのですか」


「考えていました」


 彼は言った。


「文の差出人についてです」


「何か分かりましたか」


「いいえ。ですが、一つ気づきました」


 彼は、あの一行の文を机に置いた。


 ――弟は返してもらう。


「イレーネ嬢。この文は、おかしいのです」


「どこがですか」


「『返してもらう』です」


 彼は言った。


「弟君は、攫われていません。今、保護所にいます」


 私は、その一行を見つめた。


「返す、というのは、元々こちらのものだったという意味です」


 彼は言った。


「この差出人は、弟君を『自分のもの』だと考えている」


 私の背が、冷たくなった。


「――誰が、そんな」


 そのとき、扉が乱暴に開いた。


 ハーゲンだった。


 息を切らしている。


「アーレンス卿。フォークト嬢」


 彼は言った。


「ローゼンタール侯爵が、王宮に出頭しました」


「出頭?」


「自首です」


 ハーゲンは言った。


「侯爵は、十年前のフォークト伯爵夫人エルフリーデの死について、証言すると申し出ました」

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