第26話 三か月
三か月前より、頬の線が硬くなっている。外套の裾が泥で汚れていた。長く馬に乗ってきた者の汚れ方だ。
私は馬車を降りて、通りを渡った。
目の前まで来て、足が止まった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
「――イレーネ嬢」
彼が先に言った。
「はい」
「生きておられましたね」
私は、笑おうとした。うまくいかなかった。
「はい」
「それは何よりです」
彼は、それだけ言った。
三か月ぶりの再会で、この人が言うのはそれだけだった。
私は、なぜか泣きそうになった。
「――卿。北部は」
「終わりました。穀倉の監査です。不正は三件ありました。いずれも小規模です」
「いつ、王都へ」
「昨夜です」
彼は言った。
「局へ寄って、ハーゲンから状況を聞きました。委員会が二日後だと」
「はい」
「七票と」
「はい」
彼は頷いた。
「では、歩きながら話しましょう」
◇
冬の通りは、風が強かった。
私たちは並んで歩いた。馬車は後ろからついてくる。
「クレーマー伯爵を落としたと聞きました」
「麻袋です」
「――麻袋」
彼は少し黙った。
「五年分の仕入帳から、雑貨の項目を洗ったのですか」
「はい」
「よく思いつきましたね」
「卿が教えてくださったことです」
私は言った。
「相手が損をしているところを探せ、と」
「言った覚えがありません」
「言っていません」
私は言った。
「やっているのを、見ていました」
彼は、前を向いたまま歩いていた。
しばらくして、こう言った。
「イレーネ嬢。父君のこと、伺いました」
私は、足を緩めた。
「はい」
「悔やみを申し上げます」
「――ありがとうございます」
「解剖を求めなかったそうですね」
「時間が惜しかったので」
「そうですか」
彼は、それ以上聞かなかった。
いつもの、この人の引き際だった。
でも、今日は。
「卿」
「はい」
「私、父の手を握りました」
私は言った。
「爪が伸びていました。誰も切ってあげていなかった」
風が吹いた。
「十年、口をきいていませんでした。母が死んでから、あの人は私を見なくなって、私もあの人を諦めていました」
私は言った。
「なのに、手を握ったら、涙が出ました。おかしいですね」
ジークベルトは、答えなかった。
しばらく歩いて、こう言った。
「私は、父の葬儀で泣きませんでした」
「――先ほど、十四のときとおっしゃった」
「ええ」
彼は言った。
「泣かなかったのは、怒っていたからです。なぜ死んだのか、なぜ家族を置いていったのか」
彼は続けた。
「二十年経って、まだ泣いていません。泣けるうちに泣いておくべきでした」
私は、彼を見た。
この人が、自分の話をするのを、初めて聞いた気がした。
「卿。三か月、どこにいらしたのですか」
「北部です」
「本当に、穀倉の監査だけを」
彼は、少し間を置いた。
「――八割は」
「残りの二割は」
「北部は、第三王女殿下の御領地です」
私は、足を止めた。
「委員長の」
「はい」
彼は言った。
「殿下は、二十四歳。王宮を出て、御領地の経営をなさっています。理由は、王宮に居場所がないからです」
「――第二王子殿下と」
「仲がよろしくありません」
彼は言った。
「殿下は、三年前まで王宮の会計監督をなさっていました。陛下がお倒れになったあと、その職を解かれ、領地へ出されました」
私の心臓が、速くなった。
「王宮の会計を、見ていた方」
「はい」
「では」
「イレーネ嬢」
彼は言った。
「殿下は、何かをご存じです。私はそう確信しました。ですが、何もおっしゃいませんでした」
彼は前を向いた。
「三か月、通いました。穀倉の監査報告を、毎週、直接お届けするという名目で」
私は、彼を見上げた。
「――卿。あなた、北部へ飛ばされたのではなくて」
「飛ばされました」
彼は言った。
「ですが、飛ばされた先で何をするかは、私が決めます」
◇
「殿下は、委員長です」
書斎に戻ってから、ジークベルトは言った。
ハーゲンが向かいに座り、私が横にいる。
「委員長は、通常、採決に加わりません。可否同数のときだけ、決裁票を投じます」
「では、十四名で採決」
「はい。七対七なら、殿下の決裁票で決まります」
ハーゲンが唸った。
「七対七に持ち込めますか」
「現在、賛成七、反対五、態度未定二です」
私は言った。
「未定の二名が両方反対に回れば、七対七。片方でも賛成すれば、八対六でこちらの勝ち」
「未定の二名は」
「ヴェルシュ子爵と、リンドナー男爵」
私は名簿を指した。
「ヴェルシュ子爵は、三度会いました。話は聞いてくださいますが、態度を明かしません」
「リンドナー男爵は」
「二度会いました。同じです」
ジークベルトが、名簿を手に取った。
「この二人は、態度を明かさないことで得をしています」
「どういうことですか」
「最後まで態度を保留すれば、両陣営から働きかけを受けられます」
彼は言った。
「賛成派からも、反対派からも、何かを引き出せる」
ハーゲンが頷いた。
「駆け引きですな」
「では、こちらから何か出しますか」
私が言うと、ジークベルトは首を振った。
「出しません」
「なぜ」
「出せば、次も出させられます」
彼は言った。
「一度買われた票は、次も買われます。相手のほうが、金を持っている」
私は、名簿を睨んだ。
「では、どうすれば」
「イレーネ嬢」
彼は言った。
「この二人を、諦めてください」
私は、顔を上げた。
「――諦める?」
「はい」
彼は言った。
「七対七で構いません。殿下の決裁票を取りに行きます」
◇
「無茶です」
ハーゲンが言った。
「殿下は、この三か月、卿に何もおっしゃらなかったのでしょう」
「ええ」
「では、決裁票は反対に投じられるかもしれない」
「その可能性はあります」
ジークベルトは認めた。
「ですが、賛成に投じられる可能性もある」
「賭けですな」
「賭けです」
私は、二人のやりとりを聞いていた。
そして、口を開いた。
「――卿。ひとつ、伺っていいですか」
「どうぞ」
「殿下は、三か月、何もおっしゃらなかった。それは、拒否されたということではありませんか」
「違うと思います」
「なぜ」
「毎週、お会いくださいました」
彼は言った。
「拒否なら、二度目で断られます。三か月、十二回、殿下は私に時間を割かれた」
彼は続けた。
「その十二回、殿下は一度も、この件について質問なさいませんでした」
「――それは」
「知っておられるからです」
ジークベルトは言った。
「質問しないのは、答えを知っている人間です」
私は、息を呑んだ。
「では、なぜ動かれないのですか」
「動けないのだと思います」
彼は言った。
「殿下は、王宮を追われた身です。証拠を持っていても、それを出せば、次は領地も失う」
私は、名簿を見た。
第三王女、アマーリエ。
二十四歳。三年前まで王宮の会計監督。今は北部の領地。
「――卿」
私は言った。
「殿下に、お会いできますか」
「委員会の当日、議場でお会いになります」
「その前です」
「難しいですね」
彼は言った。
「殿下は、委員会の前日に王都へ入られます。宿は王宮ではなく、北部貴族の館です。面会の申し込みは、すべて断っておられる」
私は、立ち上がった。
「行きます」
「イレーネ嬢」
「断られても、行きます」
私は言った。
「卿。あなたは十二回、通われたのでしょう」
私は言った。
「私は、一回しか時間がありません。でも、行かないという選択肢はありません」
ジークベルトは、私を見上げた。
そして、立ち上がった。
「では、同行します」
「卿は」
「私が同行すれば、少なくとも取り次いではもらえます」
彼は言った。
「十二回分の顔です。使いましょう」
◇
その夜、私は自室で、話すことを整理していた。
紙に書いては、消した。
殿下に何を言うか。数字を並べるか。母の話をするか。弟の話をするか。
どれも、違う気がした。
――質問しないのは、答えを知っている人間です。
ジークベルトの言葉が、頭に残っていた。
殿下は、知っている。
なら、私が数字を並べても意味がない。殿下はもう知っているのだから。
では、何を言えばいいのか。
私は、ペンを置いた。
窓の外は、暗かった。
――知っているのに、動けない人。
それは、三年後の私だ。
牢の中で、私は知っていた。継母が盗んだことも、ヴィルヘルムが裏切ったことも、その先に誰かがいることも。
知っていて、動けなかった。動けば、レオが危ないと思ったから。
結局、動かなかったから、レオは死んだ。
私は、紙を引き寄せた。
そして、一行だけ書いた。
――動けない理由が、守っているものは、本当に守られていますか。
それだけを書いて、私はペンを置いた。
◇
扉が叩かれた。
こんな時間に。私は身構えて、扉を開けた。
グレーテルが立っていた。
その顔を見て、私は息を呑んだ。
この三か月で、私はこの顔を三度見ている。
「――何が」
「お嬢様」
老執事は言った。
「伯爵夫人が、いらっしゃいません」




