プロローグ
寒い寒い夜の頃、母の手にひかれながら夜の道を歩いた。
薄汚れた母を見て通ゆく人々は険しい表情で一瞥するだけだった。
「ごめんね、ごめんね。行くあてがなくて寒いよね。ごめんね」
母は何度も謝ってきた。なけなしのカーディガンを僕の肩にかけてせめて少しでも温かくと抱きしめた。
暗い路地裏だった。
空には星も見えず、しんしんと冷たい雪が降っている。
まるで僕らをさらにいじめているようだ。
どうして神様は僕らをこんなにいじめるのだろうか。
敬虔な信者の母は言っていた。
「いつか幸せになるために試練をお与えになるのだと」
そんなこと知らない。今苦しいのに何もしないなんて酷いことだよ。
「大丈夫か」
男の声がした。
見上げると父よりもずっと良い服を着た男だ。
「子供が凍えている。家へ帰れないのかい?」
そんなこと見ればわかるだろう。
そう言いたいが、僕も母も寒さで唇がかちかちになって言葉を出せずにいた。
男はしばらく無言で僕ら母子をみて言った。
「こっちへ来い。そんな姿を見ておいて何もしないで帰ったら眠れやしない」
あくまでぶっきらぼうに言う男の言葉を信じて良いのかわからなかった。
ただ差し出された男の手は節ばっていて切り傷の痕が見えた。
あまり綺麗な手には見えないが、彼の胸元の白いカーネーションは綺麗だと思った。
◆◆◆
アシュラムの夏は基本涼しい。日差しが強い時期は暑いがそれでも日陰に入れば涼むことはできた。
もうしばらくすれば涼しくなるが、それは曇り空が増えるということだから考えものだ。
朝方、夕方が涼しいため、この時期は早めに仕事を開始して早くに終了する職場も珍しくない。
「眠たい」
ルイスは眠い目をこすりながら食堂へと入った。
今日は休日だからもう少し寝ていればよかったかもしれない。
通常勤務の父親に合わせて朝食が早いため、どちらにせよ母に叩き起こされるのであるが。
「おはようございます」
食堂に顔を出すと、いつもの顔ぶれのように両親が朝食をとっている。
父は朝食を済ませて、日課の新聞を眺めながら紅茶を啜っていた。
あともう少しすれば出勤時間だ。
ダイニングに飾られている時計をみてルイスは椅子に腰をかけた。
父が読んでいる新聞は「アシュラム・タイムズ」。ルイスが勤務するグレル出版社の新聞である。
最近コラムに担当している小説家の短編小説が不定期掲載されているためあとで確認しておきたい。
父がみている新聞の1ページ目には大きくタイトルが書かれていた。
――キルデック公女、地方孤児院を訪問する。
この国の王族は慈善活動に力を入れており、貴族夫人、令嬢たちも勤しんでいる。
ルイスの母親も友人たちと一緒に傷病兵の社会復帰の為の資金集めに参加していた。
他にルイスが知っている令嬢、シャーロット・ベルエイデンを思い出す。
彼女が前日の打ち合わせでげんなりとしていた。
「義姉に孤児院訪問の仕事を割り振られてしまった」
社交界や令嬢たちの活動は苦手だと彼女が言っていたことを記憶していた。
「子供は苦手なのだよ。未知の存在だ。話が全く読めない」
確かにルイス自身も10代の令嬢と会話しろと言われても困る為気持ちはわかるような気もする。
「ほら」
父が立ち上がりルイスに新聞を渡す。
いつもは彼がテーブルに置いた新聞をルイスが手に取る流れであるが今日は何かあったのだろうか。
(まさか、俺が担当している作家がチャールズ・イヴァノヴィッチ先生だとばれた?)
母が大ファンだから面倒だと隠していたというのに、いつ気づかれたのだろうかとルイスは焦った。
「お前の書籍も宣伝されているぞ」
思いもしない言葉にルイスは新聞を受け取りすぐに中を開く。
「ルイス・パンドディア著 東海放浪記Ⅱ」
小さく書かれた書籍名である。
周りに同じ大きさの文字でたくさんの有名作家、学者の書籍が並んでいるというのによく見つけられたものだ。
「書店で予約しないと」
話を聞いて一緒にのぞきこんだ母が明るく叫んだ。
「そこまでしなくても買えると思うけど」
と言ってしまうが、マイナーすぎて逆に売れ残っているのではと考えると不安を覚えた。
「東大陸は人気エリアだ。需要はあると思うぞ」
ルイスの不安を察したのか、父が立ち去り際に言ってきた。
「いってらっしゃい」
母は父の後を追いかけていった。
玄関先で出かける際のキスをしているのだろう。
立ち去った父のことをルイスは考える。
あのように言うなど思いもしなかった。
ルイスがどんな仕事をしようとしても興味を示していなかったと言うのに。
思えば幾度となく父の提案を蹴っていたルイスであり、とうに父から期待も興味も抱かれていないと思っていた。
「お父様も嬉しいのよ。あなたが国内にいてくれて」
母はにこにことしながら食堂に戻ってきた。
「ルー、今日はお休みなのだから靴の調整をしにいっておきなさいよ」
忘れていたことを言われてルイスは「ああ」と呟いた。
新しく卸した靴は合わないことは珍しくない。購入した後は何度も靴職人に足の具合を確認して靴を調整してもらうのだ。
(さすがに行かないといけないか)
前日のようにまた靴擦れを起こしてシャーロットに心配かけてはいけない。
同時に冷ややかな眼差しのオリヴァーを思い出した。足が酷くなれば何と言われるかと考えると緊張してしまう。
仕方ないと母の言う通りに靴職人の元へと通った。




