第99話 【前世編】菅田龍斗⑦
――雪の降っていた、その日。
ちえりの会社の前の喫茶店から、彼女が会社から出てきたのを見つけた龍斗は、決意を込めてその後を追いかけた。
(……雪も降ってるのに。病み上がりで、傘も差さないなんて)
そう思った龍斗は、ゆっくりと歩いているちえりに足速に追いつくと、すっとその頭上に傘を差し掛けた。
突然、誰かから傘を差し掛けられたことで足を止めたちえりが、その主を見定めるためにこちらを見上げる。
「……ちえり」
目があって。
驚愕に開く瞳を見つめながら、龍斗は彼女の名前を呼ぶ。
「……りゅう、くん?」
「うん」
龍斗はちえりが、躊躇いながらも自分の名前を間違えずにちゃんと呼んでくれたことに満足する。
「ダメでしょ。ちゃんと傘差さなきゃ。風邪ぶり返したらどうするの?」
「…………、どうして…………?」
その『どうして』が、何を指してのどうしてなのか、龍斗は正確に読み取れなかった。
どうして龍斗がここにいるのか、なのか。
どうして風邪のことを知っているのか、なのか。
いずれにしても、龍斗がここにいることを不思議に思っている様子から察するに、ちえりはこの間の葬儀の直後、自分と会ったこと、自分が熱を出したちえりを看病したことを覚えていないのかもと思い「覚えてない?」と尋ねた。
「…………ごめん」
どうやら龍斗が思った通り、ちえりはあの数日、龍斗が看病したことを覚えていないらしい。
それならそれでまあいいと気を取り直した龍斗は、落ち着いた様子を崩さないまま、ゆったりとちえりに説明をした。
「…………。……この間、りえばあちゃんのお葬式に顔を出したんだけど、その時ちゃんと挨拶できなかったから、『また改めて』って言って今日来たんだ」
「……ああ」
そうだったんだというふうに微笑むちえりに、龍斗もにっこりと笑い返す。
「だから今日、もしちえりがよければ、改めてばあちゃんに挨拶をさせてもらってもいい?」
こう告げることで、ちえりが自分を家に入れてくれることも見越して。
案の定、龍斗の申し出を快く受け入れたちえりは、そのまま龍斗をともなって、かつて自分が住んでいたあの家に迎え入れてくれたのだった。
◇
部屋に案内された龍斗は、戸棚の上に置かれた祖母の遺影の前で手を合わせ、線香をあげた。
(……この間はバタバタしてて碌に手も合わせられなかったけど。改めて、ちゃんと面倒を見てあげられなくてごめんな、ばあちゃん)
前回、熱を出したちえりの介抱をしている間は、そんな余裕もなくて手を合わせることもできていなかった。
今日改めて訪れ、手を合わせることで、祖母に対する謝罪と、これからはちえりを幸せにしたいと願いを込めて祖母に手を合わせる。
それが終わって龍斗がちゃぶ台の前に座りなおすと、ちょうどそこからはちえりが龍斗のためにコーヒーを淹れてくれようとしている姿が見えた。
その光景は――、まるで彼がこの家からいなくなる5年前と、まったく何も変わっていないような錯覚を覚えさせた。
(――ようやく。ようやく、ここまで来れた)
あの日。
龍斗がこの家を出ると決めてから、再びちえりの前に戻ってこれるまで、5年近くもかかってしまった。
もう一瞬も、待つことなんてできない。
そんな衝動に揺り動かされた龍斗は、コーヒーを淹れるちえりの背中を見ながら、一分一秒さえ遅らせることさえ惜しく、我知らずちえりに向かって告げていた。
「ちえり。――結婚しよう」
と。
「……………………えっ?」
お茶の準備をしていたちえりが、驚いた様子を隠さないままにこちらを振り返る。
そんなちえりに、龍斗は身構える間も与えずに畳み掛ける。
「就職したし、社会人になるし、今度は……俺がちえりを養える。だから」
「え……、ちょ、ちょっと。ちょっと待ってりゅうくん」
ちょっと待って、と遮られ、龍斗の胸が嫌な痛みを覚える。
「……なんで? もしかしてもう、付き合ってる人とかいるの?」
「それは……いないけど……」
ちえりのその言葉に龍斗がほっと胸を撫で下ろす反面、当のちえりはまだ動揺も収まらぬ様子のまま、困惑した表情で龍斗に問い返してくる。
「結婚って……、でももう私、28だよ? りゅうくんまだ22歳でしょ?」
さすがに、歳が離れすぎてると思うし――。
ちえりに言われたその言葉に、龍斗は再び、胸の痛みを覚えた。
年のことは、自分が一番気にしていることだ。
好きな人より年下である自分。
彼女に、弟のように庇護対象として見られることを嬉しく思う反面、ずっと悔しく思っていたのだ。
――でも。
「6歳差なんて、大した差じゃないよ」
「大した差だよ! だって私、もうアラサーだよ?」
「……でも、俺が30歳になったら、36歳だし。40歳になった時は46歳だよ。そう大した違いはなくない?」
この数年間、ずっと自分にも言い聞かせてきた言葉を、ちえりにも同じように繰り返す。
すると案の定、龍斗の言葉に「それは……」と、ちえりが考えるような様子を見せた。
それを機に、龍斗は思いの丈をちえりに向かって一気に吐き出した。
「…………ずっと、好きだったんだ」
一緒に住んでいた時は、ずっと言えなかった言葉。
何年もかけて、想いを告げられるように努力してきた。
その想いが、ちゃんと彼女に届くようにと、ひとことひとこと、祈りをこめながら言葉を紡ぐ。
「……本当は、鷹宮の家になんて行きたくなかった。ちえりたちと一緒にこの家に住んでいたかった。この家が好きで、この家の雰囲気が好きで、ちえりのことが好きで。でも、二人を守るために、力をつけるために。そうするのが一番だと思ったからそうしたんだ」
本当は――。
自分だって、あの温かい家に、ずっと住んでいたかった。
もしかしたら、あのままこの家に住み続けて、全てを解決できる未来もあったのかもしれない。
今となっては、悔やんでも仕方のない後悔だけれど。
「つ……、都合がよすぎるよ……」
「何が? 俺が?」
ちえりの言葉が、都合よく家から逃げ、また自分の都合で帰ってきた自分を責めているのかと思いながら問いただす。
けれど、ちえりは「……じゃなくて……」と言って、龍斗の恐れを否定する。
「……りゅうくんは、普通の人がお母さんとか優しいお姉さんを好きになるのと同じみたいに、私のことを好きだって思ってるだけだよ」
どこか苦しそうな表情でそう告げてくるちえりに、龍斗は「ふっ」と笑った。
(何を言っているんだろう。この人は)
そんなこと。
自分が全く考えずにきたと思っているのだろうか?
何度も何度も、同じような自問自答を繰り返しながら、その度にそうじゃないという答えに辿り着き、何年もかけてようやく告白できるまでに至ったというのに。
そうして、ちえりの言葉を否定する龍斗に対して、なおも『りゅうくんの気持ちは勘違いなのでは?』と言ってくる彼女に、とうとうしびれを切らした龍斗は、
「ちえり」
と彼女の手首を掴んで、
「俺の気持ちを、勘違いなんて言葉で済ませようとしないで」
と、耳元ではっきりと伝えた。
(勘違いなんかで何年も想いを拗らせ続けることなんてないし、こんなストーカー紛いみたいなことだってしない)
龍斗自身ははっきりとそう自覚していたが、そうではないちえりにわからせるために彼女の耳元で囁くと、驚いたことにちえりはその一言でわかりやすいくらいに動揺する姿を見せた。
見ているこちらのほうがかわいそうになるくらいに狼狽え、顔を赤らめながら目線を彷徨わせている。
その様子を見た龍斗は、それが――なによりの彼女の答えなのだと思って、膨れ上がった嬉しい気持ちのままに彼女の名を呼び、そのまま腕の中に抱きしめた。
あの頃、自分よりもずっと大人に見えていた彼女は、今では自分の腕の中にすっぽりと収まるほどに小さく、それが却って龍斗の胸に愛しさを湧きあがらせる。
ちえりは、最初の方こそ微かな抵抗を見せたが、龍斗に放す意思がないとわかると、最終的に自分に大人しく身を委ねてきた。
むしろそれは、身を寄せると言ってもいいくらいに。
(……勘違いじゃないよな?)
あまりにも都合のいい現実に、龍斗は何度も自問する。
確認するために、一度だけちらりと腕の中のちえりに目をやると、ぱっと目があったちえりはそのまま恥ずかしそうに恥じらいながら目を逸らして自分の胸に頬を寄せた。
それだけで――、この現実が、勘違いではなく間違いなく自分の身に起こっていることなのだと感じられた。
長年こじらせていた想いが実ったことを噛み締めながら、龍斗はちえりをそのまましばらく黙って抱きしめ続けた。
この日を機に、ちえりと龍斗は、結婚を前提に付き合うこととなった。
そのことは、龍斗が恥ずかしがるちえりに言質をとり、はっきり認めさせた。
しんしんと降り積もる雪は、今や足首が隠れてしまうまでに、外の地面を覆い尽くしていた。




