第100話 【前世編】菅田龍斗⑧
――人は、浮かれるとおかしくなるのだということを、我が身をもって初めて知った。
「ありがとうございましたーー!」
キラキラとした眼差しで見つめられたまま店員に入口まで見送られ、ジュエリーショップから出てきたところで、ようやく龍斗ははっと現実に立ち返る。
(や……、やってしまった……)
自らの手には紙袋。
その中には――、天鵞絨で出来たケースに入った指輪が一つ。
ちょっと――、下見をしてみようと思っただけだったのに。
ほんの出来心だったのに。
ふらふらと店内に足を踏み入れた龍斗は、彼のそのパッと見てわかる身なりの良さと見目麗しい見た目で、早々にジュエリーショップの店員にロックオンされてしまったのだ。
(ええ〜〜、こんなイケメンにプロポーズされるとか、どんなハイスペ女子よ!?)
(どんだけ徳を積んだらこんな爽やかボーイに愛されるの!?)
(しかも、うちの指輪を買えるとか、どんだけ高収入なのよ!?)
そんな、女性販売員の悲喜交々《ひきこもごも》な視線を知らずに受け続けた龍斗は、つい販売員に勧められた指輪を見始めたら夢を膨らませてしまった。
どうせなら――、プロポーズはちゃんと指輪を渡しながらサプライズしたい。
もしかしたらちえりは、サプライズされるよりは自分で指輪を選びたいのかもしれない。
でもこのシチュエーションは譲れない。
そう思っていた龍斗は、なのでまずリサーチを入念にして、ちえりが一番喜ぶものを選ぼうと思っていたのだ。
それがまさか、リサーチ一店目で決めうちするなどとは思わずに。
(でも……、これだ! って思ったし。ビビっと来ちゃったし)
そう言い訳をしながら、龍斗はとりあえず店の前を離れるべく歩いた。
ちえりには――、冗談混じりで「いつ籍を入れる?」なんてことは普段から言ったりしてる。
最初の2度ほどは心中穏やかではない気持ちでドキドキしながら言っていたのだが、実際に口にすると、ちえりは嫌がるというよりもほんのりと頬を赤らめてくれていたのを見て「よし!」と自分の中で安心材料を得たのだ。
龍斗はそれで「もう行ける! 大丈夫! プロポーズしても玉砕はしない!」と思っている。
思っているからこその――、浮かれポンチの婚約指輪購入なのだ。
そう。
今まさに、龍斗は幸せの絶頂にいた。
長年思い続けてきた相手と、ようやく添い遂げられる時が来たのだ。
これまでの艱難辛苦を乗り越え、ようやく辿り着いた理想郷で、どうして浮かれずにいられることができようか――?
そう、思っていたのだ。
その後まもなく、不調を覚えて診察しに行った先で、自らの余命宣告をされるまでは。
◇
「……余命、半年……?」
「現段階では、そのような診断になります」
頭が真っ白になりながら問い返すと、主治医となった医師からは同情の「ど」の字もない淡々とした口調でキッパリと告げられた。
「……あの、手術とか、治療とかは……」
「大変申し上げにくいのですが、現代医療では痛みを和らげる処置をほどこすくらいしか」
なんとなく、ここ数日間ずっと体調がすこぶる悪いと思っていたので通院した日。
あれよあれよと精密検査を受けさせられ、とりあえず痛み止めを渡され、『数日後に検査結果を聞きに来てください』と言われた結果が、先ほどの余命宣告だった。
主治医があまりにも淡々としていたものだから、つい『ああ、そうだよな。いちいち患者に同情して重々しくなんて言ってられないんだよな』とか、『この先生も俺に余命なんて告げるの嫌だったろうな』とか、全く明後日の方向にばかり頭がいってしまったが、じわじわと現実が落ちてきた龍斗に、ずん、と絶望が重くのしかかった。
(…………………………)
何かを言葉にしようと思っても、言葉にならない。
人は、本当に絶望した時は、ただ感情に溺れることしかできず、言葉など全く出てこないのだと思い知る。
主治医からは『検査結果を聞きにくる時は家族と一緒に』と言われていたが、結局祖父が来ることはなく、一緒に来たのは鷹宮家の雑務を取り仕切ってくれる祖父の片腕的な存在で、龍斗も馴染みのある男だった。
(……あの爺さん。日頃からよっぽど悪いことでもしてるのかな。息子に先立たれたのに、孫までとか)
自分の祖父のことを考えて、嘲笑で口角が上がったところに、水滴が流れ込んできた。
それが自分の涙だと気づくまでにまた数秒かかる。
鷹宮の車で家まで送られ、自室に帰り着き、病院で渡された分厚い資料を机にどさりとおいたところで、そのとなりに置いていた指輪の入った紙袋が目に入った。
――――――ちえり。
その瞬間。
現実が一気にどすんと重さを持って、龍斗の上にのしかかってきた。
――――――どうしよう。
ちえりを幸せにする、って言ったのに。
俺……、このままじゃちえりを幸せに出来ないかも……。
不意に、病気でやせ細り衰えていく自分を看病しながら泣くのを堪えているちえりの姿が脳裏に浮かぶと、それだけで頭が真っ白になった。
「……………………!」
衝動的に、溢れてきた涙を撒き散らしながら、自分の意志とは関係なく衝動的に机の上に置いた分厚い資料を床に叩き落とす。
まるで、そこにすべての元凶が潜んでいるかのように。
「あ゛あ゛…………! …………!」
――どうして。
どうして神様はちえりに、幸せを与えてくれないんだろう?
――どうして?
どうして神様はすぐに、彼女を不幸に陥れようとするんだろう?
自分に、ちえりを不幸にさせる選択肢ばかりを持たせるのだろう?
自分が病気になって生きながらえることができないショックもあったが、それ以上に、どうして世界は彼女にばかり辛い現実を与えるのか、理不尽な怒りを抑えることができなかった。
部屋の中で暴れ散らしながら悪態のようなものを散々吐き出し尽くし、荒い息を吐きながら床に膝をつくと、次にようやく、まだ沸騰したままの頭でちえりのことを思った。
(――ああ、俺。ちえりに……、プロポーズできないじゃん……)
天井を仰いで絶望する。
流していた涙が、頬を伝って耳に落ちていくのがわかった。
……せっかく買った指輪。
よろこんでくれるかと思ったのに。
どうすんだよ。渡せないじゃん。
(この状態で『結婚してくれ』って言って? 余命もなくてこれから多分闘病生活が始まるのに、それをちえりに支えてくれっていうのか?)
――言えるわけがない。
そんな残酷なこと。
天井を見上げたまま、どうしようもなくなって目を瞑ると、ふと頭の中に幸せそうに微笑むちえりが思い浮かんだ。
(……ああ。ようやくばあちゃんのことから立ち直って元気になってきたのに。今度は自分を看取ってくれって? そんなこと……、どう考えたって言えないだろ……)
これまでだって、散々祖母の介護で苦労してきたちえりに、今度は自分の介護もしろと言うのか?
きっと、彼女は事実を告げたら自分のことを支えてくれようとするだろう。
だからこそできなかった。
だって神様。
ちえりはもう散々、人のために苦労してきたんだよ。
これ以上なんで、ちえりにそんなことさせられると思うんだよ?
(言えない……。言えないだろ……、どう考えたって)
それに、それ以前に龍斗は、これからおそらく衰弱していくであろう自分をちえりに見せたくなかった。
ガリガリに痩せて、ボロボロになって死にゆく自分を見せたら。
ちえりはきっとまた、それで心を痛めることなど、考えるまでもなくわかる。
だったら――、最後に覚えていてもらうのは、元気な自分の姿でありたかった。
(なんで……、俺はちえりを、幸せにすることができないんだろう……)
無力感に苛まれて、また一筋、涙が流れていく。
――結局。
龍斗が取れる選択は、一つしかないのだ。
ちえりに別れを告げて、彼女の前から消える。
自分が最後にちえりにしてやれることは、それが精一杯。
だから。
◇◆◇
「――あのさ、別れてほしいんだ。他に、好きな子ができたから」
ちえりに自分の余命のことを知られる前に。
自分がまだ――元気でいられるうちに。
すべての感情を殺して、ただ淡々と、龍斗はちえりに別れたいと告げた。




