第94話 【前世編】菅田龍斗②
「……あのね。今日うちに来たばっかりなのに本当に申し訳ないんだけど……、その、今ガスが止められてて。お風呂がお水しか出ないから、今日はこれで体を拭いてもらうしかできないんだけど……」
(――――ん?)
そう言って、『ちえり』と名乗ったこの家の娘がおずおずと差し出してきたのは、電気ポットに入ったお湯と、風呂桶とタオル。
「明日になったらガスも使えるようになるから、そうしたらお風呂沸かしてあげるね。それか、あの、もしどうしても嫌なんだったら、お父さんにお願いして銭湯に連れて行ってもらえるよう頼んでみるけど……」
本当に申し訳なさそうにそう告げてくるちえりに、龍斗は驚いた。
どうやら意地悪で言っているわけではなく、本当にガスが止められているらしい。
「あの、これからは本当に、こんなことがないようにするから。本当に来たばっかりでごめんね」
別に、ガスが止められたのはちえりのせいではないだろうに、まるで自分のせいで龍斗に迷惑をかけてしまうような気まずそうな顔でそう告げてくる。
それを見て、龍斗はなんだか妙な気分になった。
(……なんで、こんなに申し訳なさそうに謝るんだろう? 悪いのは、どちらかというと突然押しかけた自分の方なのに)
そう思いながらも、なんと答えていいのかぱっとわからなかった龍斗は、「……別に、大丈夫」とぼそりと答えて俯く。
龍斗としても、もともと風呂など毎日入れてもらえる生活をしていなかったので、別にそんなに気にすることでもなかった。
それにしても――。
(……ガス代が払えていないって、どういうことだ? このうち、金持ちなんじゃないの?)
外から見た家があまりに立派だったので、てっきり龍斗はこの家は裕福なうちなのだと思い込んでいたのだ。
しかし、中に入ってみてまもなく、実際はそうではなかったのだと思い知らされることになる。
部屋数こそ少なくはないが、電気代がもったいないからと実際に使っているのは台所とリビングと風呂トイレくらい。
オール電化で家全体も全室一括の冷暖房になっているらしいが、それをつけると電気代が高くなるから使わず、台所とリビングだけにエアコンを別に設置して電気代を抑えているらしい。
「見掛け倒しでびっくりしたでしょ。ごめんね」
ちえりからそう謝られたが、龍斗としては3食まともに食べさせてもらえるだけでありがたかったし、暖かい布団で眠らせてもらえるだけで十分だった。
むしろ、祖母ではなくなぜちえりが家事を一手に引き受けているのかも疑問だったし、食事の片付けが済んだ後、その整った秀麗な容姿で複数の安売りのチラシを真剣に眺めているのはなんだかミスマッチだと思った。
「――あ、そうだ。りゅうとくんのパジャマ、明日には買ってくるから、今日は私のおさがりでもいいかな?」
ふと、思い出したようにチラシを睨んでいた顔をあげたちえりに「女の子のパジャマなんて嫌かもしれないけど」と言われたけれど、龍斗に嫌だなどと言える訳もない。
むしろ――目の当たりにしたこの経済状況で、自分のためにパジャマを買わせることすら申し訳なく思う。
「別に、パジャマなんてなくていいよ」
「え、だめでしょ。パジャマがないとちゃんと寝れないよ?」
(――いや別に。今までだってパジャマなんてなくてもちゃんと寝れてきたし)
龍斗がそう思い、「パジャマなんて買わなくていい。むしろ今日もこのまま寝る」と固辞しようとしたのだが。
「だめだよ。ちゃんとパジャマに着替えて寝ないとお布団汚れちゃうし。眠りも浅くなっちゃうんだから」
と。
ちえりから『服のままで寝ると布団が汚れる』と言われては、それ以上言い返すこともできなくなった龍斗は、結局その日は諦めてちえりのおさがりのパジャマを着て寝ることとなり、明日新しいパジャマを用意してもらうことになった。
その日、龍斗が着せられたのは、くまのイラストが書かれたちえりのお下がり。
布団の中で寝返りを打つと、妙にいいにおいがふわりと漂ってきて、それだけでなんだかドキドキした。
自分でも訳のわからないドキドキを誤魔化そうと、さっさと寝るべく目を瞑ったけれど、そうしたらそうしたで今度はなぜかちえりの鈴の転がるような優しい声が脳内再生されて。
それがまた落ち着かなくて、龍斗はがばりと布団を被った。
◇
ちえりは――、なんだか不思議な存在だった。
朝、高校の制服に身を包み家を出ていく時は、完全無欠な美少女優等生みたいな姿で出ていくのに、帰ってくるとそのお嬢様然とした見た目とは似つかわしくない家庭的な姿で家事に勤しむ。
家のことを引き受け、祖母の面倒を見、龍斗のことまで気を配るちえりは、まさにこの家の中心と言っても過言ではない。
そのくせ、そんな過重労働にも文句一つ言わずに淡々とこなす。
そんな彼女と一緒に過ごすうちに、龍斗はいつしか、自分の中にあった燻った思いが段々と小さくなっていっていることに気づいた。
――もしかしたら自分は、この家に引き取られたのは運が良かったのかもしれない。
経済的に裕福とは言えない。
けれど、精神的に満たされている。
自分だって決して楽な立場ではないのに、その状況に不満を漏らさずに努力し続けるちえりは尊敬に値するし、そんな彼女がただの余所者の自分を、いつも慮り大切に扱ってくれることに言いようのない感情を抱く。
自分が――誰かから大切にされているという充足感。
ちえりという人間は、それを押し付けるでもなく、ただ黙って静かに感じさせてくれる人だった。
だからこそ、自分もそれを返したいし、大切にしたいと思う。
ちえりの父親が事業に失敗し、住んでいた家も差し押さえられ、古くてぼろい2DKのアパートに引っ越しても、彼女の気高さや気丈さは揺らぐことはなかった。
ちえりが生まれた頃から住んでいた、住み慣れた家を引き渡す時。
家の前で、自分と手を繋ぎ隣に立つちえりを見上げながら、龍斗は思う。
(――強い)
こんなに強い人を、龍斗はかつて見たことがなかった。
だからこそ憧れた。
2DKの住まいは、ボロくて狭くはなったが、その分以前よりも家族の距離感が近くなった。
いつでもちえりがそばにいる。
その感覚が、龍斗は嫌ではなかった。
そんな龍斗の気持ちが、単なる憧れだけでなく『恋心』なのだとはっきりと気付かされたのは。
小学校から帰ってくる道の途中で、ちえりがたまたま同じ高校の男子生徒と一緒にいるところを見た時だった。




