第92話 これはあくまで、人命救助のためです
周囲を覆っていた大樹が消えたことで朝焼けの空が天上に広がる。
ここにやってきた時は夜だと思っていたのに、いつの間にか日が変わるほどの時が経っていたことに今になって初めて気づく。
(…………終わった。これで全部、終わった……の……?)
物語は成った。
トゥルーエンドに到達し、こうして人柱にされずに自分は朝を迎えている。
視線を空から下ろすと、そこにはこちらに背中を向けて立つサリュートの姿。
チェリエと同じく天を仰いでいた彼は、こちらに振り向くような動きを見せたかと思うと、そのままぐらりと大きくバランスを崩して地に倒れた。
「サリュート様……!」
かろうじて頭を地面にぶつけることがないよう抱き止めることができたが、同年代の男性一人の体重をチェリエ一人で支え切れるはずもなく、一緒に地面に倒れてしまった。
そうして――気づく。
剣を握りしめていたサリュートの手が、瘴気の影響か黒ずんでいることに。
よく見るとその黒ずみは、手だけではなくサリュートのシャツの下にある首元にも及んでいるように見えた。
チェリエは逡巡した後、サリュートのシャツの襟元のボタンを外した。
シャツの胸元を開けると、はだけたその下にある鎖骨の周辺もびっしりと瘴気で黒ずんでいるのがチェリエの目に映った。
(…………こんな、どうして……?)
――妖精たちが守ってくれていたのではなかったの?
と、そこまで思ったところで、チェリエは思い出す。
デルトムントの人間と比べて、世界樹から距離のあるトリギアの人間は瘴気に対する耐性が低いことを。
そして、妖精たちは瘴気そのものを浄化することや、瘴気の侵食を防ぐことはできても、一度瘴気に侵された人間を浄化することができないことを。
だから――、レイスやギーク、ティエルと挑むトゥルーエンドよりも、サリュートは短期決戦でいかなければならなかったという事実を。
動揺で震えるチェリエの視線の先で、ちゃり、と何かが音を鳴らす。
――鎖に通した、チェリエの指輪だ。
チェリエが、母親の腹から出てくる時に一緒に手にしていたというあの指輪。
チェリエが無くさないようにといつも鎖に通してお守りがわりにネックレスとして身につけていたあの指輪をサリュートが代わりに持っていてくれていたのだ。
(……どうして、サリュート様がこれを身につけているのかしら……)
彼にとっては取るにたらない、ただの指輪でしかないこの指輪を。
チェリエの代わりに後生大事に身につけてくれていることに、なんだか妙な違和感を感じる。
(ううん、そんなことより)
一刻も早く、サリュートの体内の瘴気を浄化しなければ。
今は指輪のことを気にしている場合ではないと気を取り直したチェリエは、サリュートを膝に抱いたまま彼の胸に両手を当て、浄化するために意識を集中させる。
しかし――。
(…………何かしら、この感触…………?)
なんだか、浄化をしようと力を行使しても、空回りをしているような反応が返ってくる。
言うなれば、チェリエがサリュートの体に溜まった瘴気を吸収しようとするが、瘴気自体の抵抗が強く、うまく吸収できない感触がするのだ。
花継ぎの乙女が瘴気を浄化するには、乙女自身の体内に瘴気を吸収し、浄化花として顕現させる必要がある。
(この速度だと。吸収し切る前にサリュート様の体がもたない)
そう思い、浄化に集中するために瞑っていた瞳を開いてみると、なんとチェリエがサリュートから瘴気を吸収しようと注いだ力が、サリュートの体に満ちる前に口から漏れ出てしまっているではないか。
(えっ――――――)
思わずチェリエはサリュートの口を片手でぱっと塞ぎ、自ら注いだ力が漏れ出ないようにしようとしたが、チェリエが手で塞いでも指と指の隙間から浄化の力が漏れ出ていく。
(ど……、どういうこと……? どうして……?)
動揺するチェリエの脳裏に、なぜか突然『だったら口から瘴気を吸収すればよいのでは?』という閃きが降りてくる。
そう――、そうなのだ。
この世界のベースは、乙女ゲームの世界。
いわゆる、メインキャラが攻略対象を浄化するといったおいしいイベントで、恋愛的な接点が作られないわけがないわけで――。
(え……。つまりこれって、わたくしがサリュート様に――)
くちづけをしながら、浄化をしなければいけないということ?
後半部分は、恥ずかしすぎて言葉として頭に浮かべることもできなかった。
激しい動揺で心が荒れるまま、それまでより一層強くサリュートに力を注いでみるも、強くした分だけ口から漏れ出る力の量も多くなるだけ。
(えっ、嘘でしょうこれ? 何がなんでも口からやれってこと!?)
段々と、逃れようもない事実に追い詰められるチェリエは泣きたい気持ちになってくる。
気持ちの上では泣きたいが、このまま腹を括らずにいてはサリュートは瘴気に侵されたまま、時間が経てば立つほどに後遺症が残る危険性も高くなる。
なんとも言えない気持ちに苛まれながら、チェリエは心の中で何度も、
(……人命救助。人命救助のためよ。……サリュート様だってさっき、わたくしのために人命救助で人工呼吸をしてくださったじゃない)
――そう。
これは、邪な気持ちで交わすくちづけなどではなく、あくまでも人命を救助するために行うものなのだ。
決して――、恋心とか、そういった邪念のない、彼の命を救うためのもの。
(――うん。うん、そうだわ。人命救助。人命救助よ)
自分の胸に、そう何度も何度も言い聞かせたチェリエは、無意識のうちにサリュートの胸にかけられた指輪をぎゅっと握りしめて、彼のくちびるにそっと自らの唇を重ねた。
それから、自らのくちびるを通して、サリュートの体内に溜まっている瘴気を吸収しようと集中する。
くちびるを通じて吸い出す瘴気は、さきほどとは比べ物にならないくらいサリューとの体から抜け出てくる。
ゲームの設定に振り回されている自分がふがいなくてどうしようもない気持ちになりながらも、ひとまずこれが正解だったのだということにほっとしたチェリエは、その瞬間脳裏に浮かびあがった映像に気を取られた。
(――――――子ども?)
そう、子どもだ。
瞼を伏せ、サリュートから瘴気を吸収することに集中していたチェリエは、視界を二の次にしていた思考の中で、子どもの姿を見た気がした。
そして、抗い難い眠気のようなものに襲われる中、その映像は段々と鮮明なものになっていく。
(あれは――。あの子は。どこかで……)
めちゃくちゃに散らかった部屋の片隅で小さくうずくまる、痩せ細った10歳くらいの男の子。
その子をどこかで見たことがある――、とチェリエが思った時。
それが、この転生したゲームの世界ではなく、かつてチェリエが生きていた前世の現代社会のアパートだということに気づく。
うらぶれた、ぼろぼろの。
今時珍しいトタン作りの、今にも潰れてしまいそうな二階建てのアパート。
気付けば、チェリエの意識はもといた世界樹の場所ではなく、前世の世界を俯瞰していた。




