第88話 くちびるに、温かい何かが触れています
水に落ちたチェリエは、なんとか水上に上がろうと両手で水を掻くも、何かに引っ張られているのか一向に水面に上がれる気配が感じられなかった。
(なに……? なんで……?)
ふと、腰に何かが絡みついているような感覚を覚えて視線を動かすと、自分と同じくらいの年頃の見知らぬ少女が水底へと引き摺り込もうと腰に手を回しているのが目に入った。
(…………!?!?!?)
目が合うと、少女がぞっとするような底知れない暗い瞳でにいっと笑う。
直感で、これまで人柱にされてきた少女たちの怨霊だと思った。
そして、その少女の浮かべる禍々しい笑顔があまりに恐ろしくて、思わず止めていた息をごぼっとすべて吐き出してしまう。
(……い、いけない……!)
そうは思っても時はすでに遅く、苦しみに焦るほどに酸素の足りなくなった脳は段々と白んで目の前が霞んでいく。
(……これはもう……、ダメかも……)
薄れていく意識の中、チェリエは暗くなった視界の中で誰かがこちらに向かって泳いでくる姿が見えたような気がした。
しかし、それが誰なのかを確認する前に、チェリエの意識は闇に落ちた。
◇◆◇
――くちびるに。温かい何かが触れている――。
薄らいでいた意識が戻ってくる中、チェリエが最初に思ったのはそのことだった。
次に、胸の奥から込み上げてきた強烈な気持ち悪さと同時に口から水を吐き出し、ごほごほと咳き込む。
「ごほっ……!」
「……よかった! 気がついた?」
四つん這いになりながら咳き込んでいると、背中に温かい手のひらが添えられたのを感じる。
それが誰であるのか。
わざわざ確認しなくても、チェリエには声色でそれがサリュートなのだとわかった。
「……サリュート、様……?」
「うん」
激しく咳き込み、涙目になりながら問いかけたチェリエは、サリュートの短い返事にほっと安心感を覚える。
それから、どうして今こんな状況になっているのか、記憶を遡り、出来事を整理していったチェリエは、自分が祭祀長に人柱にされそうになっていたリリーと入れ替わり、代わりに世界樹の根元に落とされたのだということを思い出した。
(……そうだわ。わたくし、水の中で息を吐き出してしまって……)
水中に引き摺り込まれようとしていたところを、誰かが泳いで助けに来てくれていた影を見たことを思い出す。
それから――、目覚める直前に、くちびるに温かい何かが触れていたと思ったことも。
(……………………ん?)
微細な違和感から自らのくちびるに触れたチェリエは、そのまま視線をちらりとサリュートに向けた。
先ほど感じた感触は、もしかして――?
いや、もしかしなくても。
チェリエから直接、その疑念について尋ねたわけではなかった。
しかしサリュートは、視線を受けただけで彼女が懸念していることを正しく理解し、気まずそうな顔になりながら「…………ごめん」と言った。
「その……、チェリエの許可なく、するのは……、良くないと思ったんだけど……。でも、一刻を争うと思ったから……」
サリュートのその答えは、彼がチェリエを救うために人工呼吸を施したのだということを言外に語っていた。
そうしてその答えを聞いたチェリエは、胸の内に、はっきりと言葉にできないじわじわした想いが湧き上がり広がっていくのを感じた。
「あ……、あの……」
(な……、何を恥ずかしがっているの、わたくし……! だってこれは、あくまで人命救助的なもので、そんな、それ以上の深い意図なんてないわけで……)
それでも――例え、人命救助でも。
つい、サリュートのくちびるが自らのそれに触れた絵面を想像してしまったチェリエは、気恥ずかしいような、照れくさいような思いが胸の内に渦巻くのを、胸に手を当てて押さえ込もうとする。
チェリエはまだ気づかない。
胸を焦がすその感情が――、嬉しい、という感情なのだということは。
彼と離れたくないが故に、彼との恋を進めたくないと決めている彼女は、その想い事態がもうすでに恋なのだということにまだ気づいていない。
「待って、チェリエ」
そんなチェリエの胸中には構わず、何かに気づいた様子で近づいてきたサリュートは、じりじりと後退し出したチェリエを軽く抱き寄せながら懐から小さな花を出すと、花魔法を発動させる。
その瞬間、濡れていた髪や衣服を、暖かい風があっと言う間に乾かしてくれた。
「……これでよし。いつまでも濡れたままだと、風邪を引いちゃうから」
そう言って、チェリエを抱き寄せたまま、目の前で彼女の頬に絡みついた髪をサリュートが払いのけてくれたのを目にした瞬間、チェリエの心臓がどっと跳ねたのがわかった。
(いやいやいやいや! どっ! じゃないわよ! どっ! じゃ!)
もう恋愛はしないと決めたのに、どうして心臓を跳ねさせたりするのか――。
生理現象は自らの意思でどうにもできないと知りつつも、不覚にも心を揺らしてしまった自分を、チェリエは内心で叱咤する。
すぐ近くにいるサリュートの、匂いや体温、気配のすべてが、彼女を落ち着かなくさせる。
(…………ああ)
さすがにこうなるとチェリエも、認めざるを得なかった。
(…………わたくし、この人が『特別』なんだわ…………)
目の前のこの人が。
損得なく、いつも全力で自分を守ろうとしてくれるこの人が。
ただ、人として好きなだけではない。
世界中の他の何よりも大切だと思っているのだと、遅まきながらに自覚する。
それはもう、好きという言葉だけでは収まりきらない感情で。
だから『愛してる』という言葉がこの世の中には存在するのだと、チェリエは初めて思い知らされた気がした。
――この瞬間。
サリュートが彼女の顔をしっかりと見ていれば、きっと彼は彼女の顔に浮かぶ自分への恋情に気づいていただろう。
だけどこの時、サリュートは今自分がいる場所を観察することに意識を集中させており、チェリエが浮かべていた表情を見逃してしまっていた。
こうしてサリュートは残念なことに、自らがチェリエを守るために周囲に意識を張り巡らせている間に、彼女の想いを感じ取る機会を逸してしまったのである。
「……ここは、多分世界樹の中、だよね」
チェリエが下を向いて気持ちを落ち着かせることに集中している間に、周囲を見回したサリュートがぽつりとそう呟く。
その呟きに対して、ようやく落ち着きを取り戻したチェリエは「……多分、そうだと思います」と答えた。
「これってつまり、人柱にされた結果、世界樹の中に取り込まれたってこと?」
「そういうことで、間違いないと思います」
原作ゲームで履修済みだったチェリエは、ここが人柱にされた後に花継ぎの乙女が行き着く場所なのだということを理解していた。
世界樹の内部であり――、世界樹の本体が植えられている場所。
原作ゲームのトゥルーエンドでは、今、チェリエとサリュートがこうしているように、主人公と花籠の騎士が世界樹に取り込まれた結果ここにたどり着くことになるわけだが。
「……あのさ。実は、前から考えていたことがあるんだけど」
「なんですか、サリュート様」
チェリエは、ようやく気持ちを落ち着けてサリュートと向き合えるようになったところで、サリュートからの言葉に問い返す。
するとサリュートは、真剣な面持ちでこちらをじっと見ながら、チェリエに向かってはっきりと告げた。
「……僕が、君の『花籠の騎士』になる、っていうのは、どうかなって」
――――と。




