第87話 今すぐに、自分の体に戻りたい
チェリエの体に入ったリリーを伴い、花継ぎの正殿に戻ってきた祭祀長は、リリーのことなど全くお構いなしにぐんぐんと正殿の奥へと突き進んでいく。
(……な、なんなのかしら。確かに、行きたい方向は同じだから都合がいいっちゃいいんだけど)
リリーの前を歩く祭祀長の表情は彼女から見えない。
見えていたら――きっと一目散に逃げ出していただろう。
それほどに、彼の顔は、よくない策略を頭に巡らせた悪い顔をしていた。
「……チェリエ様は、ずっとトリギアの王子殿下に囚われており、先ほどお目覚めになられたばかり、と申しておりましたね」
「……え、ええ。ええ、そうです……」
祭祀長の質問に、なるべく中身がチェリエではないとバレないよう、チェリエのふりをしながらリリーは答える。
「時にチェリエ様は、この花継ぎ協会の信徒が世界樹に身を尽くすことについてどう思われますかな?」
(……なんなの? この質問……?)
もしかして自分は、本当はチェリエではないと疑われているのだろうか?
だからこそ、チェリエであれば答えられる質問に答えられるか否かを試されているのだろうか?
そう思ったリリーは、慎重さを保ちながら、チェリエが言いそうな答えを模索しつつゆっくりと口を開く。
「そうですね……。信仰対象のために身を捧げる、ということは、とても美しく尊いことではないでしょうか」
リリーは、伊達にチェリエを嫌っていたわけではなかった。
嫌いだっただけに、チェリエが言いそうな反吐の出るような美辞麗句を容易に思いつき口にすることができた。
ことこの時に限っては、リリーにとってそれが裏目に出るとは思わずに。
リリーの言葉を聞いた祭祀長は、彼女から見えない位置でにいっと口角を歪ませる。
「……さすが、チェリエ様です。それを聞いて私も安心しました」
「………………?」
祭祀長の言葉を訝しみながら眉を顰めたリリーは、そこで目的地である花継ぎの石板にたどり着いたことに気づく。
そうして、祭祀長は意味ありげにこちらに向かってゆったりと振り返ると、リリーによく見ろとでも言いたげに、ちらりと石板に視線を走らせる。
「あなたのような敬虔な方であれば。世界樹のために、厭わずその身を捧げてくださることでしょう――」
リリーは祭祀長のその言葉を耳にしながら、石板に書かれた名前を凝視していた。
――花継ぎの乙女、チェリエ・マーキュリー。
(……花継ぎの乙女、チェリエ……マーキュリー?)
視界からの情報に一瞬思考が追いつかなくなり、嫌な予感だけが胸を渦巻く中、リリーは状況を整理する。
(え……? チェリエ様が花継ぎの乙女になった……、ってこと? え? なんで?)
だがしかし、チェリエの姿をしているのは今、自分なのだ。
(どういうこと……? 祭祀長様にやっぱり正体がバレてたってこと? 私がチェリエ様じゃなくてリリーだって気づかれてる?)
もしかして嵌められた――? と思考を巡らせているリリーは、この重要な局面でずっと眠っており、情報が足りないために知らないのだ。
祭祀長が二人の入れ替わりをまだ知らないこと。
目の前のリリーを本物のチェリエだと思った上で、侯爵令嬢であるチェリエを花継ぎの乙女として人柱にするにはサリュートや家柄という障害が多すぎるため、せっかくチェリエと接触が取れたこの好機に、無理やり人柱にしようと目論んでいることを。
いまだ戸惑いから抜け出せないリリーの手を祭祀長がつかむと、ぐい、とさらに正殿の奥へと連れ込まんと引っ張っていく。
「や……っ」
止めて、と口にしようとしたが、恐怖で最後まで言い切ることができなかった。
祭祀長のふしくれだった大きな手はチェリエの細い手首をがっちりと掴んでいて、リリーが必死に足掻こうとしても抜け出すことができない。
リリーにはまだ、祭祀長が何をしようとしているのかがはっきりとわかっていなかったが、本能的に自分の身に危険が及んでいることだけはわかった。
「どうしましたチェリエ様? 先ほどご自身でおっしゃっていたではないですか。信仰対象のために身を捧げるというのは、とても美しく尊いことだと」
逃げようとする自分を力ずくで世界樹の根元に向けて引っ張ろうとしている祭祀長。その向かう先には世界樹の根元に出来た聖水の水溜まりがあり、どうやら彼はそこにリリーを引っ張り込もうとしているらしい。
このままでは、あそこに引き摺り込まれてしまう――。
それの何が具体的にまずいのか、きちんと理解はできていなかったが、とにかく今危険な状況に立たされていることだけは理解しているリリーは、どうにかしてこの窮地を逃げ出したいという一心で自らの悪事を白状する。
「……祭祀長様! 違うんです! 私は、チェリエ様の姿はしてますけど、本当はリリーなんです!」
今ここで危害を加えられるより、ひとまずお目当てのチェリエではないということを白状して逃げる算段を整えたい――。
そう考えたリリーの目論見は、あっさりとついえることとなる。
「……そんな馬鹿な。この後に及んで言い逃れですか?」
「違います! 本当なんです! 信じてください!」
必死のリリーの形相に(正確には顔貌はチェリエのものだが)、祭祀長は一瞬考え込むような様子を見せる。
しかし、その間にリリーが祭祀長から逃れようとしても、力強く握られた腕は抜け出すことができなかった。
「……なるほど。確かにそれが正しいとすると。ここ最近の彼女の勤勉さも理解はできますね……」
思考しながらぽつりと漏らした祭祀長の言葉に、リリーは自分の言葉が信じてもらえたのかと歓喜する。
「じゃあ……!」
「しかしどのみち、彼女にも儀式を行なってもらう話になっていますから。だったらどちらが先でも構いませんよね」
まずはあなたに儀式を行ってもらい、ダメだったら彼女にもやってもらいましょう――。
そう言ってにっこりと微笑む祭祀長に、リリーは初めて底知れない恐れを抱いた。
――本気だ、この人。
本気で、チェリエでもリリーでも、とにかく誰でも人柱にできればいいと思っている。
どちらが正しい花継ぎの乙女かなんて、この人にとっては取るに足らない問題なのだ。
そう思った瞬間。
リリーは初めて、命の危機を覚えた。
「い……、いやっ……! 誰か……!」
そう叫び、リリーが涙目になりながら暴れると、祭祀長が彼女をおとなしくさせるために容赦無く平手で打ってくる。
もはや、彼女に人柱としての価値しか見出していない彼は、彼女が侯爵令嬢であろうと関係がないのだ。
叩かれ慣れていないリリーは、もはやそれで意識も飛びかけ、頭も真っ白になる。
――今度こそもう、ダメかも知れない。
リリーがそう、頭の片隅で絶望しかけた時だった。
どたどたと忙しない足跡が近づいてきたかと思うと、花継ぎの正殿に数人の人間がなだれ込んできたのは。
「――いた!」
そう言って、世界樹の世界樹の根元に引き摺り込まれようとしていたリリーたちを見据えた相手。
それは他でもない、チェリエの体を追いかけてやってきた、サリュートたちの姿。
そしてリリーは振り向き様、サリュートの後ろに守られるように立っている自分の姿を目の当たりにする。
その瞬間、リリーは心の底から本気で願った。
(あ……ああ――)
――戻りたい。
――今すぐに。
――あそこにある、自分の体に戻りたい――。
そうすればきっと、この窮地を抜け出すことができる。
そう思った瞬間、自分の頭がまるで誰かに後ろから思い切り引っ張られたような感覚を覚えた。
ぐいっ! と力任せに抜き出された魂は、瞬きほどの時間の間に、自らの体に引き戻される。
そしてそれは、リリーだけではなくチェリエも同じだった。
突然、強い眩暈のようなものを覚えると同時に、魂が体から引き抜かれるような感覚に襲われる。
それから、風を切るように自らの体にぐいぐいと吸い寄せられたかと思うと、次の瞬間には視点が変わっていた。
(――――あ)
戻った、と思うと同時に、驚愕に満ちた顔のサリュートと目が合う。
こちらに向かって慌てるように手を伸ばすサリュート。
ぐらりと傾く自分の体。
ばしゃん、と水音と共にごぼごぼと泡立つ音が耳に流れ込んできた時。
ようやく自分は水の中に落ちたのだと事態を理解した。
【第二部 花継ぎの乙女編 完】




