第80話 なぜかしら。なんだか妙に胸がざわざわするのは
サリュートが変装して孤児院に通う間、サリュートは変装用にまた新しく『サシャ』という名前を名乗っていた。
――曰く、『あんまり名前の語感を変えすぎると咄嗟に反応できなくなるから』ということらしい。
一応、協力者ということもありティエルには正体は伝えた上で、しばらくの間はサリュートとティエルとチェリエの3人で孤児院で過ごす日々が続いた。
◇
「ねえ、聞いていい?」
「なんですか?」
「今日頼む分の食材の発注数なんだけど……」
注文用紙を手に、腰に手を当てながらチェリエに相談してくるサリュートの姿に、周囲にいる女子たちが『ほう……』とため息を吐く。
実際に聞こえるほどの音量だったわけではないが、ちょうどサリュートごしに向こうからちらちらと盗み見してくる様子を見て、チェリエは姿が変わってもサリュートは女性から人気があるのだと改めて実感する。
(……それはそうよね。物腰も柔らかくて優しいし、人当たりもいいし)
姿は変わっても、いつもにこにこと穏やかに人の話を聞くサリュートは、逆に『隣国の王子様サリュート・トリギア』で無くなったことでモテていた。
これまでの『王子』という身分が尻込みさせていた部分がなくなったことと、今の変装時の顔が美麗すぎるサリュートの顔よりも親しみやすいものになったことが大きな原因である。
しかし、当のサリュートはというと、そんな周囲からの熱い眼差しには気づかずに相変わらずチェリエしか目に入っていないのだが、それも周囲の女性から見ると『花継ぎの乙女だから良くしているのだ』という認識で、自分にもチャンスはあると思われているのである。
――だって、ねえ? リリー様には、レイス様もギーク様も、ティエル様もいるし。
一時は逃亡したことで不仲になったという噂もあったが、それはそれとしてこれまで上位貴族とばかり付き合ってきたリリーが、こんな身分もわからないサシャという男に興味は持たないだろう――というのが、周囲の女性たちの考えだった。
(……でも。別に……、わたくしがどうこう言うことでもないし……)
自分は一度、彼からの告白を断っている身なのだ。
断った上で、仕事の上のパートナーとして隣にいると約束した。
だから今更、彼が恋愛のパートナーを他で探そうと自分の出る幕ではない。
(わたくしは……。わたくしだって。人としては誰よりサリュート様のことは好きだもの)
そんな彼が。
1人の男性として幸せになるのであれば、それはチェリエとしても祝福したいところだ。
ところ、なのだが――。
(……なぜかしら。なんだか妙に、胸がざわざわするのは)
周囲の女性たちが彼に対して色めき立っていることが――なんだか釈然としない。
いや、釈然としないという言い方は正しくない。
なぜならばこれは、本人に自覚がないだけのただの嫉妬だからだ。
チェリエはこれまで、ちえりだった頃を含めても、嫉妬という感情を抱いたことがほとんどなかった。
いや、全くなかったと言っても過言ではないかもしれない。
前世でも今世でも、幼い頃から『自立する』ということを周囲から強く求められてきた彼女は、他人に対して嫉妬するという感情を気づかぬうちに抑圧して生きてきた。
故に他人を見て羨ましく思うことがあっても、『人は人、自分は自分』を誰かに教えられることなく線引きするところがあった。
――そう。
彼女はこれまで、何かをどうしようもなく心から欲する、という、強い欲というものがなかったのだ。
――ただ一つの――自分でも無意識に封をしている、『誰かから強く愛されたい』という欲を除いて。
チェリエがこれまで、恋をしたくないと言い続けてきたのは、決して本当に愛されたくないからではなかった。
ただ一人。
自分が全幅の愛を注げる人が欲しかった。
そして、その愛を注ぎ続けても、それに応え続けてくれる人が欲しかった。
だけど、そんなことは不可能だと思っているから。
だから、彼女は恋を始めることさえ諦めてしまうのだ。
そんなものは、自分に分不相応だと思うから。
「……あれ、聞いてる? どうしたのぼーっとして」
気がつくと、いつの間にか食材の注文数の話をしていたサリュートが、心配そうにチェリエを見つめていた。
どうやら、考え事をしているうちに気もそぞろになってしまっていたらしい。
「あ……。ごめんなさい。大丈夫です」
食材の話ですよね、と言いながらチェリエがジャガイモをしまっている袋の残数を確認しようと手を伸ばすと、あろうことか手を滑らせて袋をどさっと倒してしまった。
その結果――、ころころと中に入っていた大量のじゃがいもがころころと部屋中に散乱する。
「ああ……」
ごめんなさい――、と。
じゃがいもはまだ発注する必要もないほどにあったのに、どうして自分はこんなにボケっとしていたのか。
そんな後悔をしながらチェリエが転がるジャガイモを拾うために追いかけていると、ちょうどそこに、外からの来客が訪れたことでがちゃりとドアが開いた。
「あっ……」
来客の足元までころころと転がったジャガイモを追いかけようとした瞬間、自らの足元にあったジャガイモには気づかず、蹴躓いてぐらりとバランスを崩す――。
「うっ」
「…………リリー?」
――すんでのところで彼女を受け止めたのは。
彼女が幼い頃から嫌というほど聞き慣れた、元婚約者の声。
「…………レイス、様…………?」
見上げると、そこにあったのは聞き覚えのある声と同じ、見覚えのある顔の主がいて。
「…………何だこれは」
この日。
たまたまティエルに『時間のいい時にリリーに会いにきてほしい』と言われたレイスとギークが訪れた時に、チェリエは厨房仕事をしているところを見られ、それだけでなく、ジャガイモを部屋中に転がし、自分も転がりそうになった場面を見られたのだった。




