第72話 ささやかなプレゼント
優しい、という言葉にどう答えてよいかわからず下を向いていたチェリエは、彼の言葉で頭をあげた。
「……チェリエ、と申します。チェリエ・マーキュリーです」
「チェリエ。ありがとうございます」
そう言うと店主は、それから自らは名乗ることなく「……そろそろ、時間ですね」と呟いた。
「せっかくここまでいらしてくださったのに申し訳ありませんが。現時点ではまだ花継ぎの乙女ではないあなたには、何もお売りすることができないんですよ」
「え……?」
――現時点ではまだ、花継ぎの乙女ではないあなたには――?
そう言われてチェリエははっとする。
確かに、チェリエはリリーの体で石板に触れたことで石板を起動させることはできたが、ここにいる自分の姿は、花継ぎの乙女であるリリー本人のものではない。
「あのっ……! つまりはわたくしは、魂の部分だけここにきた、ということですか……!?」
そのことを店主に問いかけたが、もはやチェリエにその答えを聞く時間は残されていなかった。
白く霞むように周囲の風景が薄らいでゆく中、見覚えのある精霊の光が周囲に段々と輝き出す。
(――どうして? あの場に居続けるには、時間制限があったということ……?)
それを問いただすにも、問いかける相手はもう目の前に見えなくなっている。
くらり――と一瞬の強い目眩を覚えた後にチェリエが目を瞑ると、その瞬間『ですがせっかくですから、いらしていただいた記念に、私からささやかなプレゼントをさせていただきましょう』という声が脳裏に響いた。
その声は間違いなく店主のものだと思いながらチェリエが再び目を開くと、目の前の光景は花継ぎの石板の前の風景に戻っていた。
◇◆◇
はっ! と意識が現実に戻ってくる。
そう――現実。
先ほどまでいたあの『隠しショップ』が夢境のようなものだとすれば、ここは見間違いもないほどに現実だった。
「……リリー?」
すぐ隣で、ティエルが自分に向かって案じるような声をかけてくるのが聞こえる。
外見はリリーでも中身がチェリエだとわかった今、チェリエに向かって『リリー』と呼びかけるのに躊躇いがあるのだろう。
しかし、花継ぎの正殿という場所も場所であり、周囲に少ないながらも人がいたため、ティエルは大事をとって彼女を『リリー』と呼んだ。
(…………? ティエルの様子が……、思ったよりも普通だわ……?)
もしも自分が、あの石板に手を当てた後、いずこかに姿を消していたなら。
ティエルはもっと驚いたような様子を見せていただろう。
しかし、どちらかというと驚いているというより訝しんでいると言った方が近いティエルの様子に、チェリエは『あら?』と思った。
(……もしかして、私があの隠しショップに意識が飛んでから、さほど時間が経っていない……?)
そう思いながら、チェリエがティエルにそのことを尋ねようと、口を開こうとした時だった。
見上げていたティエルの瞳が、なぜか凍りついたような表情でチェリエの背後に集中している。
そうして、チェリエはその視線の先を追うように振り向く。
ティエルの視線の先。
花継ぎの石板のある箇所へ。
まさにその時。
石板の上では、書かれた文字が見えない誰かの手によって書き換えられている瞬間だった。
花継ぎの乙女、と書かれた場所から『リリー』いう文字が消え、代わりに『チェリエ・マーキュリー』という名前が刻まれていく。
(え――――――?)
「これは…………」
何が起こったのかと周りに集まった人々も石板の表記を見て事態を理解し、さざなみが流れるようにざわめきも広がっていく。
(サリュート様……!)
焦りを覚えながらチェリエが後方の壁際にいたサリュートに目をやると、ちょうどサリュートも騒ぎに気づいてこちらに近づいてこようとしているところだった。
しかし――。
「リリー! いったい、これはどういうことですか!?」
まもなく現れた祭祀長によって、チェリエはサリュートと合流する前に、周囲にいた聖職者たちによって連れ立てられてしまう。
(……サ、サリュート様……!)
花継ぎの乙女――『チェリエ・マーキュリー』。
この瞬間、当世の花継ぎの乙女はリリーからチェリエへと書き換えられた。
花継ぎの乙女の神託が覆されるという、前代未聞の出来事。
その出来事は、この花継ぎの正殿から、瞬く間に世間に広まっていった――。




