第60話 僕にとって、チェリエのこと以上に大事なことなんてないのに
しばらくして。
落ち着いた二人が体を離したとき、チェリエは自分がずいぶんと泥だらけだったことを思い出し、申し訳なさそうな顔をしながらサリュートの服についてしまった泥をハンカチで落とそうとした。
「も……、申し訳ありません……」
それを見たサリュートはくすりと微笑むと、ハンカチで自分を拭こうとするチェリエの腕をそっと押しとどめた。
「……とりあえず、元気そうでよかった」
「……はい」
チェリエの頬を手のひらで包み、親指で顔についた泥をそっと落とす。
(……本当に、サリュート様だ)
チェリエはどこか夢見心地で、目の前の整った端正な顔をまじまじと見る。
すると、サリュートはふいに表情を曇らせ、
「…………ごめんね」
と小さくチェリエに呟いた。
(………………ごめん?)
「……何がですか?」
どうしてサリュートから謝られるのか、理由が全く思い当たらなかったチェリエが素直に尋ねると、サリュートは苦々しい表情のまま口を開く。
「……樹花祈念祭の時。僕がもっと気をつけていたら……」
――チェリエが、こんな目に遭うこともなかったのに。
悔しそうにそう告げるサリュートに、チェリエは彼が、チェリエがリリーに襲われたのはサリュートが警戒を怠ったせいだと思っているのだと理解した。
(……サリュート様が落ち込む必要なんて全然ないのに)
だってあの時のことは、誰にもどうしようもできなかった。
どこで調達したかは知らないが、花継ぎ教会の使用人の服まで用意して近づいてきたリリーを、誰が警戒できただろう?
いつも自信に満ちたサリュートの珍しく気落ちした様子に、チェリエの胸の内にどうにかして慰めてあげたいという気持ちが湧き上がる。
そうして、そんな気持ちのまま、チェリエは俯いたサリュートの頬にそっと手を添えた。
「……でも。サリュート様はこうして、真実に気づいてわたくしを迎えにきてくださいました」
真実を告げることを封じられていたチェリエは、こうしてサリュートに気づいてもらえるなんて、夢にも思っていなかった。
「樹花祈念祭の日のことも、誰にもどうしようもできませんでした。それよりもわたくしは、サリュート様がこうしてわたくしを見つけてくださったことのほうが嬉しいのです……」
チェリエからそう告げられた瞬間。
サリュートの目に写っていたのは紛れもなくリリーの顔だったが、その表情の中に確かにチェリエがいるのだと強く実感できた。
チェリエが自分によく向けていた微笑み。
それをまた向けられたことで、確かにここに彼女がいるのだということを実感する。
チェリエが自分の頬に添えた手を上から包み込みながら、サリュートは彼女を抱きしめたいと衝動的に湧き上がってきた気持ちをぐっと堪える。
すると、少しだけ二人の間の空気が和らいだところで、チェリエがいつものおっとりとした様子でサリュートに尋ねてきた。
「……ところで、サリュート様はどうしてわたくしがリリーさんの中にいるとわかったのですか?」
先日、学園で二人を見た時には、サリュートがチェリエの中身が誰なのかを気づいている様子はなかった。
あれから、いったいどうして彼がここまで辿り着けたのだろうとチェリエが疑問を投げかける。
サリュートは、自分の頬に手を添えたままのチェリエの手を、温かく安らかな気持ちで包み込み味わいながら、キョトンとした顔で尋ねてくる彼女に愛しさを抱きながら答えた。
「……まあ、いろいろとおかしいなと思ったところはあったんだけど。一番最初に違和感を感じたのは、僕がリュートに変装した姿で迎えに行ったときに『サリュート様は?』って聞かれたことかな」
「ああ……」
それを聞いて、チェリエはなるほどと納得した。
確かに、リリーはリュートがサリュートだという事実を知らなかった。
だから彼女は、以前チェリエに文句を言いに教室まで乗り込んできた時も、リュートの正体がサリュートで、隠し攻略キャラだということも知らなかったのだ。
そこまで考えてまた、チェリエはふと思う。
(……ということはやっぱり、リリーさんはあのゲームをあまりやりこんでいなかったのかしら……)
リュートがサリュートだという事実は、サリュートルートをプレイしていればわかることだ。
なぜなら、原作ゲームでも彼は、変装してずっと学園に通っていたのだから。
「……チェリエ。また別のことを考えてるでしょ」
「……え、あ、はい……」
「せっかく数日ぶりに会えたのに。もっと僕との再会を喜んでくれないの?」
「……え? えっと、それは……」
サリュートから甘くそう言われて、チェリエはにわかに狼狽える。
――嬉しくないわけがない。
今だって本当は、嬉しくて溢れそうな感情を抑えるのに必死なのだ。
それを素直に感情に表すことができないのは、彼女の長く抱えたトラウマのせいで。
「……喜んでます。嬉しいですよ、もちろん……」
「本当? その割には、楽しそうに子供たちと戯れていたけど」
「えっ……?」
子供たちと戯れていた?
「どこで見ていたのですか?」
「どこでというか、ここでだよ」
リリーの中に本当にチェリエがいるのかどうかを見定めようと、ずっとこっそり見ていたのだとサリュートが明かしたことに、チェリエは驚いた。
「サリュート様だって、お忙しいのに……」
「忙しいのが何? 僕にとって、チェリエのこと以上に大事なことなんてないのに」
さらりと当たり前のように微笑んでそう告げる。
その言葉に含まれる甘さに、チェリエはつい堪えられなくなって顔を俯かせた。
(……わたくしは今、サリュート様があんなに嫌っていたリリーさんの姿をしているのに……)
嫌いな相手の顔に向かって、よくさらりとそんな甘い言葉を言えるなと感心するチェリエだったが。
実際にはサリュートにとって、外見などさほど重要ではなかった。
確かに、散々嫌っていた相手の顔を目の前にしているということ自体に違和感がなくはないが、それよりも中身がチェリエだということが彼にとっては大切なのだ。
そんなことを、双方が思っていた時のことだ――。
「……そこで、何をしているのですか?」
と。
戻ってきたティエルが、警戒も顕わに温室に姿を現わしたのは。




