第49話 今のあなたは、以前のあなたとあまりに違いすぎる
――リリーに逃げられたせいで降格させられた姉。
それでようやくチェリエは、この状況の顛末を理解した。
よくよく思い返してみると、この騒動の口火を切ったのも彼女だった。
つまりこのクラスメイトは、リリーが逃げ出したせいで姉に迷惑がかかった腹いせをしたかった。
そういうことなのだとチェリエは理解した。
(……それにしたって。さすがに頭から水を浴びせかけるのはやりすぎなのではないかしら……?)
花瓶の水を容赦なく頭から浴びせかけられたチェリエは髪の毛もびっしょりと濡れ、制服にぽたぽたと雫を垂らしている。
クラスの雰囲気的にも、そしてこの有様からも、いずれにしてももはやこれ以上教室にいることができない。
そう思ったチェリエが、授業を諦めて静かにこの場を去ろうと立ちあがった時だった。
「――これは、何の騒ぎなんだ」
タイミングの悪いことに、登校してきたレイスがギークを伴って教室に入ってきた。
ざわりとどよめく教室。
そして――、騒ぎの中心には、水浸しになった花継ぎの乙女。
問いただすまでもなく、大体何があったのかは察せられる状況戦。
そんな中、チェリエはこの状況を始末をつけようと、レイスには目を向けずに視線を落としたまま、彼に向かって状況を説明した。
「わたく……、私の考えがいたらず、学園に復帰しようと登校したのがよくなかったのです」
その点に関しては偽ることなくそうだと思っているので、素直に非を認める。
正直チェリエは、厳しく躾けられた貴族の子息子女の集まる学園なら、こんな低俗な揉め事など起こらないだろうとたかを括っていたところがあった。
しかし、いくら貴族の子息子女だろうと、結局はまだ未成年の少年少女ばかりの、未成熟な人間の集まりなのだ。
そのことに思い至らなかった時点で、自分の考えが浅はかだったということは認めざるを得ない。
「失った信頼を取り戻すべく奮起しても、結局は皆様を不快にさせてしまうだけなのであれば、私がここにいる意味はありませんね」
毅然とそう言い放つ彼女は、明確にこれまでのリリーとは違った。
今までのリリーならば、『ひどいっ……、なんでみんな、私にこんなに冷たくするんですかっ……?』と言って泣き落とし、同情を買おうとしていただろう。
けれど今、教室にいるクラスメイトたちが見ているのは、そんな安っぽい涙で同情を引くような人物ではなく――。
まるで、チェリエ・マーキュリーのように、貴族子女としての高い品位と品格を持っているではないか。
予想外のレイスの登場、そして予想外の花継ぎの乙女の毅然とした態度に固唾を飲んでいた教室は、次の瞬間、静かに立ち去ろうと動き出した花継ぎの乙女を、レイスが腕を掴んで引き留めたことでまた空気が変わった。
「……リリー」
もの言いたげな、困惑したような、同情するような。
さまざまな感情がないまぜになった瞳を真正面から受けて、チェリエはふわりと微笑した。
それから、そっと掴まれた腕を外すと、ずぶ濡れのはずなのにどこか気高ささえ感じさせる様子で、クラスメイトたちに潔く背を向け、チェリエは教室を後にした。
◇◆◇
「……リリー!」
教室から出てきたチェリエを追いかけ、呼び止めてきたのはティエルだった。
その時になって初めて、チェリエは自分がお目付役であるティエルを置いて教室を出てきてしまっていたことに気づいた。
「申し訳ありません、ティエルを置いて出てきてしまって……」
「そんなことより、早く乾かさないと風邪をひきます」
そう言って、自分の上着を脱いでチェリエに着せかけようとするティエルに「汚れますから……」と辞退しようとしたチェリエだったが、結局受け入れられることなくティエルから上着を着せかけられた。
それから、ティエルに手を引かれるまま校内にある温室に連れて来られると、「座ってください」と言ってソファに座らせられる。
いつのまに用意していたのか、乾いたタオルを頭に乗せられると、髪から垂れていた水滴を丁寧に拭ってくれた。
「あの……、自分でできますから……」
チェリエがそう断っても、ティエルは黙ってチェリエの髪を拭い続けた。
それから温室に咲いている白いプルメリアを一輪摘み取ると、指先から光を放ち花魔法を使う。
ティエルの使った魔法で、じんわりと温かい空気が周囲に満ちたのがわかった。
(プルメリアの花言葉は、『陽だまり』。わたくしが寒くないように気遣ってくださったのね……)
先ほどの出来事で心身ともに冷え切っていたチェリエは、ぽかぽかと体を暖めてくれる温もりに、なんだか慰められた気がした。
温室のソファにちんまりと座り込みながら、久しぶりにこんなにあからさまに悪意をうけたことで、じんわりと涙が滲みそうになるのをぐっと堪える。
そんな中、目の前のティエルからの、
「……何があったんですか」
という言葉で、チェリエは傾きかけていた意識を現実に戻した。
(……何があった……?)
何があったも何も、今の一部始終はティエルも目の前で見ていたはずだ。
なぜそんなことを聞かれるのだろうと疑問を抱き、チェリエは答えを見失い押し黙る。
しかし、次に続いたティエルの言葉で、チェリエは彼の質問の意図を遅ればせながら理解した。
「あなたが逃げている間に……いいえ。もしかしたら、逃げなければいけないほどのことが、あなたの身にあったんですか?」
――今のあなたは、以前のあなたとあまりに違いすぎる。
彼が『何があったんですか』と尋ねていたのは、先ほどクラスで起こったことではなく、チェリエ――ではなく、リリーが学園から逃げ出した理由を問うていたのだ。
これまでとは様子の違うリリーの態度を気にして、彼女に何かあったのではないかと案じて尋ねてくれていたのだ。
ティエルがチェリエの濡れた髪を丁寧に乾かしながら投げかけてきた問いに彼の誠実さを感じたものの、しかしチェリエはその問いに答えることができずに黙り込む。
(あまりに違いすぎる……。それはそうよね。わたくしだって、自分でもそんなに上手くリリーさんの真似をできているとは思っていないもの)
役者でもない一般人が、他人のふりを完璧にするなんて到底不可能である。
そもそも別に、チェリエはリリーに完璧になりすまさなければいけない理由もないのだ。
かと言って、事実をティエルに説明するにも、チェリエの体をリリーに奪われてしまったというその事実を口にすることも文章にしたためることもできない以上、彼に真実も話せない。
だからチェリエは、ティエルの言葉に真正面から返さず、
「戻ってきた以上、真っ当に花継ぎの乙女の務めを果たそうと思っただけです」
と控えめに答えた。
リリーに体を奪われたと気づいた当初は、なんとしても彼女から自分の体を奪い返さなければと思った。
でも今、あとおよそ1ヶ月半後に、原作ゲームで起こった最大の山場が来るのなら。
そしてその山場を、花継ぎの乙女であるリリーに乗り越えようという気がないのなら。
チェリエは、リリーに変わってそれを自分がやるべきなのではと思っていた。




