第47話 どうして、逃げ出したりなどしたのですか?
――翌日。
とりあえず、監視付きで外に出ることを許されるようになったリリー――ことチェリエは、身支度を整えて学園に登校してみることにした。
運が良ければサリュートと話す機会も得られるかもと思ったからだ。
花継ぎの乙女の身支度を整える間、妙に緊張した様子の使用人たちは、今日はどんな文句と癇癪が彼女から飛び出すのだろうかとヒヤヒヤしていた。
彼女の逃亡が失敗したという噂は聞いていた。
きっと、最大級に機嫌も悪いに違いない。
恫喝されるか、物を投げ飛ばされるか。
ビクビクしていた使用人たちはしかし、結局何事もなく身支度を終えられたことに『あれ?』と思った。
それどころか――、「今日もありがとう。素敵に整えてくれて助かります」などと、軽くお礼まで言われる始末だ。
チェリエとしては、いつも自宅の使用人にやっていたことをついうっかりやってしまっただけのことだが、された方としては晴天の霹靂としか言えなかった。
そんな――ありえない現実に使用人たちが驚愕していると、コンコンと部屋のドアがノックされる。
「リリー。私です」
ドアの外から聞こえたのは、ティエルの声だ。
花継ぎの乙女の攻略対象の一人にして、この国の宰相の息子。
「はい」
チェリエは返事に答えて立ち上がり、ティエルを出迎えようと扉に向かう。
すると、その後ろ姿を目で追った使用人たちは、なんだか彼女の立ち居振る舞いさえ、いつもより品があるように見えたことに目を擦る。
(な……、なんなのあれ……?)
(逃げるのに失敗して、頭でもおかしくなっちゃったのかしら……?)
彼女たちの疑問に答えるものは、誰もいない。
こうして、チェリエはリリーとしての新たな1日をスタートさせた。
◇
「おはようございます、リリー」
「おはようございます」
わざわざ部屋の前まで迎えにきてくれたティエルに、チェリエは『リリーさんは毎回、こうして花籠の騎士たちに出迎えなどさせていたのかしら?』とふと疑問を抱く。
すると、そのことに気づいたわけではないだろうが、そんなチェリエにティエルがどこか申し訳なさげに説明を始めた。
「リリー。あなたの外出に際しては、今後私がお目付役として付くよう命じられました。なので、室外へ出かける際には必ず私に声をかけてください」
「……わかりました」
ティエルの説明に、チェリエは素直に頷く。
――なるほど。
レイスは曲がりなりにもこの国の王子だし、ギークはそのレイスの護衛騎士なのだ。
だとすると、チェリエの監視役がティエルになるのは至極納得できる人選である。
頷いたチェリエが黙ってその場から歩き出すと、ティエルもそれに続くように後ろからついてきた。
ティエルはまだ気づかない。
目の前の少女の立ち居振る舞いが以前とは全く違っていることを。
彼の中にあるわだかまり、そしてその胸の内の疑問をいつ吐き出すか、彼の頭の中は、まだそのことでいっぱいなのだった。
「……どうして、逃げ出したりなどしたのですか」
廊下に誰もいないことを確認したティエルは、チェリエにだけ聞こえる声量で静かに尋ねる。
しかし、チェリエはその問いに返せる答えなど持ち合わせていない。
なぜなら、逃げ出したのは自分ではなく、今現在、チェリエの体を乗っ取っているリリーなのだ。
リリーが自らの評判を地に落とし、チェリエがこの体に入った時に行動しにくくなるようにと取った行動だったであろうことは理解しているが、それをティエルに説明する気はなかった。
なのでチェリエは、ティエルの声に少しだけ後ろを振り向くと、なんとも言えない表情で微笑むにとどめた。
その表情が、かつてこれまでリリーが見せたことのない哀愁と切なさを帯びたものであったため、不意をつかれたティエルは、自らの胸がなぜだかつきんと痛んだのを感じた。
(――なぜ。自分の方が傷ついているような、そんな痛ましい顔をするのだろう)
これまで、自分の感情を包み隠さず直球で示してきた彼女が見せた、これまでにない見せたことのない、憂いを帯びた笑顔。
一体、逃亡している間に彼女の身に何があったのだろうと思ったティエルは、それ以上相手を責める言葉を口にすることができなくなった。
そんなティエルに、チェリエが静かに答える。
「迷惑をかけてしまったことは謝ります。でも、私はもう、逃げませんから」
はっきりとそう告げる彼女は、今までのリリーとはなんだか違って見えた。
どちらかというと、天真爛漫で無邪気なリリーは、「なんとかなります! 大丈夫ですよっ!」で場を盛り上げるタイプだった。
しかし今目の前にいる彼女は――、もっと落ち着いて、成熟した人格の持ち主であるように見える。
(――彼女が逃亡している間。いったい、どんな出来事があったのだろう……)
そう思いながらリリーの後について歩いていたティエルは、学園内にある学生寮をでて学園の校内に差し掛かったところで、ふと目の前の少女がぴたりと歩みを止めたことに気づいて自らも歩みを止める。
歩みを止めた彼女の様子を見ると、彼女が黙って、ある一点をじっと見つめているのがティエルにもわかった。
チェリエ・マーキュリー侯爵令嬢。
そして、彼女を慈しむように並んで歩くリュート・スタンレイこと――サリュート・トリギアだ。
ティエルはすでに、リュートがサリュートであることを見抜いていた。
というか、この学園である程度洞察力のある生徒であれば誰でも薄々気づいている。
気づいていなかったのはそういった世事に疎い生徒と、この目の前のリリーくらいだ。
しかしそのリリーは今、まさにその二人を見て、表情を硬くしながら黙って立ち尽くしていた。
(……まさか、リリーは彼の正体に気づいた……?)
だとすれば厄介なことになる、とティエルは思う。
なぜだかわからないがサリュートに興味を抱いていたリリーは、ずっとサリュートに会いたいと騒いでいたのだ。
ここで、不作法にも彼のところに走っていって、また問題を起こそうとでもするのなら。
力ずくでも止めなければ――。
そう思ったティエルだったが、その予想は次の瞬間、あっさりと覆されることとなる。
リリーが動くよりも先にこちらに気づいたサリュートが、リリーを見て今にも射殺してきそうな冷たい眼差しを放ってきたのだ。
その眼差しを受けたリリーが、目の前で微かに、びくりと肩を震わせたのがわかった。
それからリリーは、その視線を避けるかのように彼らから目を背けると、すいっと身を翻して自分の教室に向かって歩き始めた。
――わずかな間の攻防。
ティエルはそれが、一体何だったのだろうと思いながら目の前を歩く少女の小さな背中を目で追った。




