第3話「教えることの難しさ」
都心のホテルラウンジ。外はすっかり日が落ち、都会の夜景が窓越しに広がっている。香坂美月は、目の前に座る佐伯和彦の様子を観察した。彼は、スーツの襟を整えながら、ゆっくりとコーヒーに手を伸ばした。その仕草には、何か考え込んでいるような重みが感じられた。
「こんばんは、佐伯さん。」
「こんばんは、美月さん。」
佐伯は、少し苦笑しながらカップを置いた。
「正直、今日は報告するのが少し気が重いです。」
美月は興味深そうに頷いた。
「なるほど。それは、勉強会を実施した結果が思ったようにいかなかった、ということでしょうか?」
「……ええ。まあ、うまくいかなかったというより、何が正解なのか分からなくなった、という感じですね。」
「よろしければ、詳しく聞かせてください。」
佐伯は一度深く息を吸い、ゆっくりと話し始めた。
「予定通り、病院内で若手医師向けの勉強会を開催しました。テーマは『診断における判断の迷い』というもので、ケーススタディ形式で議論を進めるつもりでした。」
「それは、実践的で良いテーマですね。実際に進行してみて、どのような展開になりましたか?」
「最初は、私が事例を提示し、『この患者が来たら、どう考えるか?』と問いかけました。でも、若手たちはなかなか発言しなくて……結局、私が話をしている時間の方が長くなってしまいました。」
美月は静かに頷きながら、佐伯の話を待った。
「しばらくして、ようやく一人が意見を出してくれたのですが、それに対して私がフィードバックをすると、また沈黙が続いてしまいました。結局、私は話し手になってしまい、一方的な講義のようになってしまったんです。」
「なるほど。参加者が受け身になってしまったのですね。」
「ええ。それだけならまだ良かったのですが、勉強会が終わった後に、一人の若手医師がこう言ったんです。『佐伯先生の話は勉強になりましたが、自分たちにはまだ判断する力が足りないので、あまり意見を言う自信がありませんでした』と。」
美月は少し考えながら頷いた。
「その言葉を聞いて、佐伯さんはどう感じましたか?」
「正直、少しショックでしたね。私は、彼らが自由に意見を出せる場を作ろうと思っていました。でも、逆にプレッシャーを与えてしまったのかもしれない。」
「なるほど……。佐伯さんの経験が豊富だからこそ、若手医師たちは『間違ったことを言ってはいけない』と感じてしまったのかもしれませんね。」
佐伯は、深く息を吐きながら頷いた。
「そうかもしれません。でも、じゃあどうすれば、彼らがもっと積極的に考え、発言する場にできるのか……そこが分からないんです。」
美月はペンを取り、ノートに簡単な図を描いた。
「教育には、大きく分けて二つのアプローチがあります。一つは『ティーチング』、もう一つは『コーチング』です。」
「ティーチングとコーチング?」
「はい。ティーチングは、知識や技術を伝える従来型の教育法です。一方で、コーチングは、相手の考えを引き出しながら、答えを自分で導けるようにサポートする手法です。」
「なるほど……。私は完全にティーチング型だったということですね。」
「そうですね。でも、医療のような専門分野では、ティーチングも必要です。ただ、議論を活発にするためには、コーチングの要素を取り入れると良いかもしれません。」
「具体的には、どうすればいいのでしょう?」
美月は微笑みながら、いくつかの方法を提示した。
「たとえば、最初に正解を求めるのではなく、『この事例を見たとき、どんな疑問が浮かびましたか?』と、考えのプロセスを問う質問をするのはどうでしょう?」
佐伯は目を丸くした。
「なるほど……。いきなり『診断はどうする?』と聞くのではなく、まずは考えを整理する時間を与えるということですね。」
「そうです。もう一つは、意見を出しやすいように、選択肢を用意する方法です。たとえば、『この患者に対して、A、B、Cのどのアプローチを取りますか? そして、その理由は?』といった形にすると、意見を言いやすくなることがあります。」
「確かに、それなら答えやすそうですね。」
「そして、意見が出たときは、すぐに正否をジャッジせずに、『なるほど、それは面白い視点ですね。他に同じ意見の人はいますか?』と問いかけることで、議論が広がりやすくなります。」
佐伯は感心したように頷いた。
「確かに……。私はすぐに『それは違う』『それは正しい』と結論を出してしまっていました。でも、それが若手の考える余地を奪っていたのかもしれません。」
「そうですね。まずは、彼らに考えさせる時間をしっかり確保し、間違いを恐れずに発言できる環境を作ることが大切です。」
佐伯はしばらく考え込み、そして深く頷いた。
「分かりました。次回の勉強会では、コーチングの手法を取り入れてみます。まずは『疑問を出す時間を作る』『選択肢を提示する』『すぐにジャッジしない』——この三つを意識してみます。」
美月は微笑みながら頷いた。
「それは素晴らしいですね。佐伯さんがこうして試行錯誤しながら進めていくことで、より良い教育の形が見えてくると思います。」
「ええ。最初の勉強会は正直うまくいきませんでしたが、これも一つの学びですね。」
佐伯の表情には、最初のような迷いや落胆はなく、新たな試みへの意欲が感じられた。
「次回までに、もう一度勉強会を開催し、今度は参加者の反応をじっくり観察してみます。そして、どんな変化があったのかを報告します。」
「楽しみにしています。」
佐伯は大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
「教育というのは、教える側も学ぶことが多いんですね。」
美月は微笑みながら頷いた。
「まさにその通りですね。」
こうして、佐伯は新たなアプローチを試すため、再び勉強会の準備に取り掛かることになった。




