第4話「母として、私として」
都心のホテルラウンジ。いつものように柔らかな光が差し込み、落ち着いた雰囲気を醸し出している。香坂美月は、目の前に座る中島彩子の表情を注意深く観察した。
前回のセッションでは、時間の使い方を見直し、仕事・クライアント対応・自分のための時間の三つに分けるスケジュールを試してみるという課題を設定した。
「こんにちは、彩子さん。」
「こんにちは、美月さん。」
彩子は、カップに手を伸ばしながら、小さく息をついた。
「前回のアドバイスを受けて、仕事のスケジュールを整理してみました。」
「実際にやってみて、いかがでしたか?」
美月の問いかけに、彩子は少し戸惑った表情を見せた。
「仕事の時間は、確かに効率的になったと思います。メールの対応時間を決めたことで、余計な気を取られることが減りましたし、仕事のメリハリがつきました。」
「それは素晴らしいですね。では、『自分のための時間』はどうでしたか?」
彩子は、少し視線を落とした。
「それが……思ったより難しくて。」
「難しい、というのは?」
「時間を確保しようと決めたのに、実際には、子どものことや家事のことで頭がいっぱいで、結局『こんなことしている場合じゃない』って思ってしまうんです。」
彼女の声には、自分を責めるような響きがあった。
「母親としてやるべきことを優先しなきゃって思うと、自分の時間を取ることに罪悪感を感じてしまって……。」
美月は静かに頷いた。
「それは、とても自然な感情ですね。特に、シングルマザーとして子どもを育てている彩子さんにとって、常に『母親であること』が最優先になってしまうのは当然です。」
彩子は、少し驚いたような表情を見せた。
「私だけじゃないんでしょうか……?」
「ええ。多くの母親が、同じような罪悪感を抱えています。特に、仕事と家庭の両方を担っていると、『自分のための時間を取ることは贅沢ではないか』と感じてしまいがちです。」
「そうなんです。実際に本を読もうとしても、ふと子どものことが気になって、ちゃんと集中できなくて。」
「では、少し視点を変えてみましょう。彩子さんが、自分の時間を持つことは、本当に『贅沢』なのでしょうか?」
彩子は少し考え込んだ。
「……分かりません。でも、私がその時間を取らなかったとしても、子どもにとってプラスになるとも限らないですよね?」
「その通りです。むしろ、彩子さんが心に余裕を持つことで、子どもとの時間の質も上がる可能性が高いのです。」
彩子は、ゆっくりとカップを置いた。
「母親であることと、私自身の時間を持つことは、両立できるのでしょうか?」
「もちろんです。重要なのは、時間の長さではなく、質です。たとえば、短い時間でも、子どもとしっかり向き合い、その時間を大切にすることで、関係性はより良くなります。」
「時間の長さではなく、質……。」
彩子は、少し考え込んだ。
「確かに、私が疲れているときは、子どもと一緒にいても心ここにあらずで、ちゃんと向き合えていないことがありました。」
美月は優しく微笑んだ。
「では、一つ試してみませんか?一日に10分でもいいので、子どもと向き合う時間を意識的に作ってみる。そして、その時間だけはスマホや仕事を一切忘れ、子どもの話をしっかり聞く。」
「たった10分でも、変わるんでしょうか?」
「ええ。実際に、子どもとの時間の質を意識するだけで、関係が改善されたという例はたくさんあります。」
彩子は小さく頷いた。
「分かりました。それなら、できるかもしれません。」
美月は、続けてもう一つ提案をした。
「そしてもう一つ。今度は、彩子さん自身の時間についてです。子どもとの時間を10分確保するのと同じように、自分のための時間も10分だけ確保してみるのはどうでしょう?」
「10分……。」
「そうです。30分や1時間と考えるとハードルが高くなりますが、10分なら、そこまで罪悪感を持たずに取れるのではないでしょうか?」
彩子は、少し笑った。
「確かに、10分なら、やってみようかなって思えますね。」
「ええ。10分でも、自分のために時間を取ることができれば、それが積み重なって、やがて『自分の時間を持つことが当たり前』になっていきます。」
「なるほど……。」
彩子は、ノートにメモを取りながら、ふと顔を上げた。
「私、今までずっと、母親としての役割を果たさなきゃって思ってきました。でも、母である前に、一人の人間なんですよね。」
「その通りです。母親であることも大切ですが、彩子さん自身の人生も大切にしていいんです。」
「……ありがとうございます。そう言ってもらえて、少し気持ちが楽になりました。」
彩子の表情には、前回までにはなかった穏やかさがあった。
「では、次回までに、一日に10分ずつ、子どもとの時間と自分の時間を確保してみてください。どんな変化があったか、一緒に振り返りましょう。」
「はい、やってみます。」
美月は微笑みながら、最後に静かに言った。
「母としての時間も、私としての時間も、どちらも大切にできるようにしていきましょう。」
彩子は深く頷いた。
「そうですね。私も、少しずつでも変わっていきたいです。」
彼女の目には、新しい決意が宿っていた。




