近江の支配者(3)
朝堂院へ向かう途中の金に御史大夫の蘇我果安が近づいてきて挨拶をすると言った。
「矢張り、予てからの計画通り決しますか。」
「それしか無いじゃろうて、それでなければ時期を失する。」
二人には、それで話が通じた。いや、二人だけではない。近江朝廷の主だった者達には、現在の喫緊の課題が何であるのか通じていた。
朝堂院へ金、果安の順で入ると既に大友の皇子はじめ重臣たちが顔を揃えていた。二人は夫々に挨拶を交わし席に着いた。
「紀大人卿、筑紫の唐使に対する返礼の礼物の引渡しは何時ごろになりそうか。」左大臣の赤兄が口を開いた。
これに対して紀大人は、今回の捕虜の数は千四百と多いので八方手を尽くしているところであるが、凡そ五月初旬には引渡しが可能な旨を報告した。
「八月の渡海に兵船の建造は、間に合うのか。」再び赤兄が尋ねた。
今度は果安が、今回の兵役では陸戦が主であり海戦が予想されない為、船は筑紫より対馬、対馬より半島へと順次廻船していけば漁船の徴用と新造船の建造で間に合う旨の報告があった。
「それでは後は、兵の徴発をいつ行うかだな。」赤兄が呟くように言った。
新羅出兵に対して大后の同意を得ていない現在、兵の徴発はできない。それが一同の懸案であった。もし大后の同意なくして兵の徴発を始めれば、近江朝廷の足元に火が着きかねないのだ。
白村江の敗戦の後の復興は未だ成されていない。特に前回兵を徴発された九州や西日本、特に漁民の生活は深刻であった。白村江の戦いは海戦であったから徴発された船と一緒に帰らぬ男達を失った女達の打撃は大きかった。敗戦から十年も経って居ないのである。
それと同時に亡国百済遺民の貴族達への任官は、旧来の豪族達の反感をかっている。天智の帝は昨年、大友の皇子を太政大臣に据えた折に百済人五十余名に対して爵位の大盤振る舞いをしているのである。
律令制の進展にも不満を抱く豪族たちは多かった。大化の改新後、遅々として進展しなかった律令制の普及は皮肉にも白村江の敗戦がもたらしたものであった。玄界灘を超えて唐や新羅が攻めて来るという恐怖に国内で危機感を共有したのである。同時に西日本各地で城砦を建造し兵を置いたことの影響も大きかった。それまで中央政権の意向など、木で鼻を括っていた地方豪族達の目の前に中央直属の軍兵が出現したのである。
律令制というのは、公地公民ということである。それまで豪族たちが支配してきた土地や氏族の人民は国のものになるということであり、自由気儘に振舞ってきた自分たちは、国の役人になるという事であった。
不満の火種は国中に転がっているのである。何時、誰が前の東宮である吉野の大海人の皇子を担ぎ出すか予断出来ないのである。
新羅出兵の見返りに、唐の高宗が近江朝廷の高官の目の前にぶら下げた餌は大きかった。高句麗の地を唐が占有する見返りとして百済新羅の地を倭国に与えると言うのである。欽明天皇の時代に新羅に吸収された任那復興は、大王家の悲願であった。また慣れない倭地に亡命してきた亡国百済人にとっても祖国復興そして帰国は悲願であった。




