近江の支配者(2)
もう辺りは暗い。邸に戻った金の気持ちは晴れない
《鎌足殿が亡くなられたゆえ儂が推載されて氏上となった。それは良い、そこまでなら良かったのだ。天智の帝は鎌足殿を深く信頼していたゆえ、中臣の後を襲った儂に右大臣などという願ってもいない高官に抜擢したのじゃ。儂は神官じゃ。神祇伯で良かったのじゃ。それだけでは無い、三十三天に誓いまで起たされておる。左大臣の蘇我赤兄にこの儂、そして御史大夫の蘇我果安、巨勢人、紀大人の五人で大友の皇子を囲んで天智の帝の詔を奉ることを誓い合ったのじゃ。》運ばれた膳の酒に杯を重ねながら思った。
《それにしても鎌足殿は不思議な御仁であった。その話しようは穏やかで物静かその癖見つめられた者の心を蛇に睨まれた蛙のようにしてしまう処があって何を考えているのか得たいの知れない恐ろしさがあった。若い頃は旻博士の下で蘇我入鹿と並び称されたと言う。六韜三略という書物を暗記するほど読んでいたとも言う。儂など六韜三略など見たこともない。息子の不比等が田辺の小隅のもとで育てられて、隋唐の帝王学を学んでいるらしい。くそいまいましい。》湯漬けにした飯に鮒寿司を取った。臭い。
《この臭さが旨いのじゃ。それが何じゃ。大伴の兄弟は、吹負などは、近頃の朝廷は臭い臭いなどと言いおる。何のことかと思えば、百済臭いと言うことらしい。確かに百済人どもは大蒜を喰らう者が多くて儂もそう思うが、面当ての物言いとしか思えん。冷や飯でも喰らわしてやろうと思っていた矢先に病と称して倭京へ引き籠もってしもうた。もう奴らにこの朝廷での出目はない。》再び、杯をとった。
《だが、何とかせねばならぬ。危うい。それが右大臣たる儂の勤めじゃ。このままでは、近江の朝廷は、立ち行かん。大伴の兄弟の如きは、吉野の皇子を頼りにするのじゃろう。手を打たねばならん。大友の皇子は、お若い。叔父でもあり義父でもある大海人の皇子に手をかけるのは、人倫の道に反すると仰られる。確かに、それはそうだが、やらねばならぬ。それが儂の勤めだ。》酔いが回ってきた。
《たとえ、皇子の気持ちを傷つけようと天智の帝に誓った、吾の務めじゃ。》そう思う金の決意は固かった。




