近江の支配者(1)
さざなみが眩しい。比叡颪も緩んできた。春は近い。
大津の宮から湖岸を歩く二人の男があった。二人とも五十を少し過ぎている。一人は薄黄の神官姿、もう一人は黒の苞を纏った武人の格好をしている。そしてともに錦の冠を頂いていた。右大臣の中臣の金と左大臣の蘇我の赤兄であった。
「まことに難儀なことにあいなってきた。」金が言った。
「そうよのぉ」赤兄が応じた。
「大后様の意向には逆らえぬ。」金はそういうと立ち止り、湖の霞んでいる先を見つめた。
昨年の夏に唐の使者は、半島に出兵して唐に敵対する新羅を討つよう要請してきた。天智の帝はそれには先ず、先の百済救援の戦いの際に唐の捕虜となった者たちや半島に残された者たちの返還の条件を付けた。その捕虜達が、この冬に筑紫に着いた。倭国の要求に対し、唐国は信義を持って応えたのである。
「百済救援の際には、斉明の帝が先に立って動かれた。今回も天智の帝がご存命であれば、吾らの荷も少しは軽かろうに。」赤兄も湖の遠くに眼をやった。
「せめて鎌足殿が居てくれたらと思う。儂には荷が重い。」金が呟くように言った。
「鎌足殿であれば何とされるか、吾も考えて見た。鎌足殿は、成るようにするのじゃ。と良く言っておられたが、そこが難しゅうござる。」と言って赤兄は金の眼を見た。金も弱く笑った。
天智の殯が済んでもここ近江の都では、何も決まっていないのである。大友の皇子が太政大臣の職責にあり政権の中核にあることは間違いないが重大な事案の決定は、大后である倭姫の承認が必要なのである。
用明天皇の時代に伊勢の斎宮を置いたのを最後に、この国では神事については大后が担ってきた。推古女帝から皇極・斉明女帝がそれであり、天智の時代は妹でもあり孝徳帝の后でもあった間人皇女が大后を務めた。
神事の大后・女帝と政治の男王の組み合わせによりこの国は動いているのである。推古女帝と聖徳太子や舒明帝と皇極女帝、孝徳と斉明の組み合わせがそれである。間人大后亡き後に大后に立てられたのは倭姫である。孝徳帝を難波の宮に置き去りにできた権威とは、大后であり皇祖母呼ばれた前の大王としての斉明の権威によってであった。
大友の皇子が即位する為には、この大后の権威に追いつき追い越すことが必要であった。聖徳太子が即位しなかったのは推古女帝の寿命の長さと、この権威の故であった。大友の皇子にとっては、父天智の大后の倭姫は実母以上の母としての権威に包まれていたのである。大海人が「皇后に天下を託して下さい。」と天智に釘を刺しておいた狙いは、実はここにあった。




