一年目五月 夏が立つ前には
もうひとつは、もちろん好きな人のお嫁さん。
五月に入ったばかりの、連休の午後。ここ最近は毎日ずっといい天気で、今日も変わらず雲ひとつないいい天気。湿気はそんなにないけど、日差しで少し暑いくらい。
私たっての希望で、縁側で2人でお茶を飲んでいた。やや冷え性の私は少しくらい暑いほうが調子がいい。彼女は暑い日に、わざわざ熱い物を飲むのを好む。だからこれは、今の時期だけの私たちの楽しみ。もっと暑くなっちゃうと、さすがにそれどころじゃないから。
こういう時、私たちは決まってあまり言葉を交わさない。わかっているから。こんな時に無理してお喋りする必要ないって。沈黙さえ心地良い。そんな五月晴れの日。そして、そんなふたりの関係。
「ふあ」
彼女が小さく欠伸をした。私も口を押さえて、小さな欠伸を一つ。
「移ったや」
「ふふ」
彼女は小さく笑ってお茶を一口飲む。私も一口。全身がぽかぽかして、頭がふわふわする。あったかい。
彼女がお茶を飲み干す。私は彼女の湯飲みに急須に残ったお茶を注ぐと、新しくお湯を足す。
私たちは今、半分眠っているみたいなものだ。意識はちゃんと起きているけど、夢みたいな時間を過ごして、夢みたいな心地でいる。
太陽のぬくもりが、そよ風が、新緑の匂いが、お茶の仄かな苦味が、そして彼女の存在が、何よりも心地良い。
彼女もそう思ってくれているだろうか。全部でなくても、少しでも。ほんの少しでもそう思ってくれるといいなあ。
ちらりと彼女を見ると、彼女もこちらを見ていた。少し恥ずかしくなる私に対して、彼女は小さくにこりと微笑んだ。彼女のそういう仕草に、とても嬉しくなる。
一口、お茶を飲んだ。変な顔とかしなかっただろうか。あんまり変な顔見られるのはちょっと恥ずかしい。ふう、と息を吐いてからもう一口。ちょっと落ち着いた。
わざわざ暑い日に熱い物を飲む。この良さがわかるようになったのは、いつからだっただろう。暑いから一気に飲めない。暑いから汗かいて、水分補給でさらに暑くなって汗をかく。不思議な感覚。いかにも彼女らしいといえばそう。変なところで偏屈というか。
ゲームとかもそう。連休とかはあんまりやりたがらない。人が増えるのが嫌みたい。連休だからたっぷりゲームできるぜ、とならないのが彼女。
多分彼女が大人になったら、夏休みとかゴールデンウィークとかより、なんでもない日に有給とか使って旅行とか行くんだろうな。そういうの、私は好きだな。
お茶を一口。少し温くなってる。淹れ直そうかと彼女を見ると、うつらうつらと船を漕いでいた。よく座布団に座って船漕げるなあ。
彼女を自分の膝に寝させる。膝枕。これすると彼女の寝顔がずっと見てられるから好き。かわいい。好き。
頭を撫でるとくすぐったそうに口をもごもごさせる。撫でられるの弱いんだよね。私、知ってるよ。
すうすうと寝息を立てながら寝ているのを見ていると、睡眠足りてないんだろうなあ、と思う。ショートスリーパーだとは言っていたけど、普段から夜更かししすぎ。ゲームだけじゃなくて、勉強とか色々やってることは知ってる。
たしかまだ、将来何やりたいか、ざっくりとした方向性しか決まってはないけど、それでもそっちの方向に向かって色々調べたり勉強したりとかしてるみたいだし。机とベッドサイドに結構色んな本とか積んであったし。付箋いっぱいで。そもそも目指してるの、システムエンジニアとかそういうやつなのかな。プログラムとかの本とかもあるし。まあ彼女なら、何をやってもきっとうまくいくだろう。器用でオールラウンドになんでもできるタイプだし。システムエンジニアって何やるのか知らないけど。
それに比べて私は、何にも考えてなんかいない。そもそも何ができるかもわからない。勉強も運動もできないし、特別な趣味とかもないし。人より上手にできることなんてお料理とか家事くらい?
さすがにお料理を仕事にはしたくないかなあ。怒鳴られたり包丁とか麺棒とかで殴られたり、朝から真夜中まで働いたり、ブラックかつ体育会系っぽいイメージだし。そんなの私には到底耐えられない。
ケーキ屋さんとかそんな年齢でもないしね。そもそもケーキとかそこまで得意じゃないし。作れるけどあんまり作りたくないし。あの量のバターとお砂糖ぶち込むとか、正直お腹のお肉のことを考えるとぞっとする。食べてもらっておいしいって言ってもらえるのは嬉しいんだけどね。
そういえば、前作った時、彼女が一人で半分以上食べたんだよね。
「…………」
彼女のお腹を触ると、ほとんどが筋肉と皮だった。この世界は、実に不公平なものだ。彼女は普段から結構よく食べる方なのに、いったいどこに消えてるんだろう。羨ましい妬ましい。
まあ羨ましい妬ましいっていうのは今更なんだけどさ。見た目も中身もハイスペックだし。中身に関しては、私の努力不足なのかな?
時計を見ると、彼女が寝てから三十分は経っていた。もうすぐ三時。そろそろおやつとか準備しようかな。起きなかったら夜ご飯のあとにデザートってことで出せばいいし。
彼女の頭を持ち上げて、私の使っていた座布団を折り畳んでから差し込む。起こしちゃってないよね? ちゃんと寝てるのを確かめてから、私は台所に向かう。
おやつは作ったけど、結局彼女は夕方まで起きなかった。夜ご飯の後に出した。凄く褒められた。
昼寝したせいか、彼女はやはり夜更かしをした。私は、先に寝させてもらった。昼寝と言うには寝る時間が長かったからなあ。結局、二時間以上寝てたし。
二人で寝る前提のサイズのベッド。枕も二つ。恋人同士みたいで凄く好き。彼女のそういう無神経なところが大好きで大嫌いで、それでも大好き。恋人同士だとかそんなこと、考えたこともないくせに。そもそも女の子同士でも普通こんなことしないでしょ。それかお姉ちゃんか何かだと思われてる?
どっちにしろ、恋人ではないものね。
少し寂しさを感じながら、布団に潜り込む。布団も枕も、凄く柔らかい。
気を使って、灯りを豆電球と卓上電気スタンドだけにしてくれた。目を閉じると、水に沈んでいくみたいに意識が遠くなっていく。
少しして、不意に頭を撫でられる感触がした。
うっすらと目を開けると、彼女が私の顔を覗き込みながら、私の頭を撫でていた。
変な夢。でも、とっても幸せな夢。
「ばか。好き」
私が言うと、夢の中の彼女は少し困ったように微笑みかけてくれた。
気付いたときには意識は再びなくなっていて。
目が覚めると隣には彼女が眠っていた。掛け布団を蹴飛ばして、お腹をかき、小さくいびきをかきながら熟睡している。机の上が散らばっている。何時までやってたんだろ。
夢の中の彼女のように、彼女の頭を撫でてみた。彼女は少しくすぐったそうにするだけだった。
カーテンの隙間から外を見る。今日も雲ひとつない。スマホのアラームを解除してから、私は服を着替え、ちょっとだけ外に散歩に行った。
早朝は涼しくて、柔らかな風が心地いい。目に入ってくる緑も青も鮮やか。
多分一年で、今日が一番気持ちがいい。そういう風にさえ思わせるような朝。
そんな五月の朝。
夏が立つ前の朝。
どこかに行こうっていう目的も、しっかりウォーキングしようってほどの体力もない私は、適当にぶらぶらと歩いただけで、特に何かもなく帰った。大体二十分とかそのくらい歩いていたのかな、汗も出ない程度に温まって、体もほぐれて気持ちがいい。口元を押さえ、ふわりとひとつあくびをする。ちょっと早起きだった分、気持ち眠気はあるけど、コンディションは良い気がする。
彼女はまだ眠っているだろうな、と一度部屋に戻ると、彼女はやはりまだ眠っていた。一応確かめに来ただけだから、別になにかあるわけじゃなくて、すぐまた戻って朝ご飯の支度するつもりだけど。時計を見ると、六時を過ぎたばかり。さすがにまだちょっと早いかな?
寝顔を覗き込むと、口がもごもご動いてた。夢の中で何か食べてるのかな? 夜中まで色々してたみたいだし、お腹空いてるのかな。おかず何か追加してあげよっかな。
「お疲れ様」
耳元で小さい声で囁いて頭を撫でる。彼女はくすぐったそうに身をよじらせた。
いつだって全力で動いてるもんなあ。遊ぶのも勉強するのも。本当に本当に、いつもお疲れ様。
あんまり寝るの邪魔しちゃ可哀想だよね。ごめんね、ゆっくり休んでね。私は撫でる手を止めて台所に向かった。
頑張ったご褒美じゃないけど、何か好きなもの作ってあげようかな。あ、せっかくだからおむすびしたげよ。恭子が好きなんだよね、おかかとツナマヨ。あんまり材料持ってきてないからできることって限度あるけど、そのぐらいなら。
炊飯器を動かす。ちょっと早いけど、ご飯が炊けるまでにおかずだけ作っちゃおうかな。炊飯器とか、料理に使う道具とか、先に全部片付けてしまえれば私も楽だし。
下拵えとか支度なんかはだいたい昨日のうちに済ませちゃってるから、ほんとにぱぱっとで済んでしまう。作るもの作って、どんどん洗って片付けて。これができてると後が凄い楽。そうこうしてるとご飯も炊ける。
炊けたご飯に塩をして、よく混ぜて、おむすびにしていく。思ったよりたくさんできた。
そろそろ恭子の両親も起きてくるくらいの時間。二人分だけテーブルの上に出しておいて、あとは冷蔵庫にしまって私は彼女の部屋に戻る。せっかくだし、二人でゆっくり食べて欲しい。
私がここで料理するのを、迷惑でないか、と昔聞いたことがある。恭子が私の料理が好きだから、料理を作らせて欲しいと頼んだ時。二人とも仕事が忙しいし、恭子のおばさんは料理があまり得意な方ではないらしいので、私が作るのは実に助かると言っていた。事実なのか方便なのかはわからないけど、そう言ってくれたのは本当に本当に嬉しいこと。本当に優しい人たち。
彼女の部屋に戻ると、やはり彼女はまだぐっすり眠っていた。結構遅くまで勉強とかしてたのかな?
起きるまでどうやって待とうかなと思った時、ふと机の上に置いてある本が目に入った。どんなことが書いてあるんだろうと、一冊手に取ってみた。
適当なページを開いて見る。ぺらりとページをめくる。何が書いてあるのか、私にはさっぱりわからない。
これを理解しながら読んでるってことだよね。ほんと凄いなあ。元々凄いのはわかってるけどさ。やりたい仕事とかちゃんと決まってて、進路もある程度決めてて、それに向けて勉強とかもちゃんとやってて。本当に凄い。
私なんて何をしたいのかも、何ができるのかも、何もわかっていないのに。
いいえ、本当は一つだけある。けど、それはまた違う話。
私は本をそっと元のところに置くと、彼女の手をそっと握った。
「あなたが貰ってくれたらいいのに」




