千の魂を持つ怪物
空に浮かぶ巨大な門。その向こう側にいるものを見上げながら、俺は考えていた。
あれは生物ではない。少なくとも、俺が知っている生物の構造には当てはまらない。
肉体がない。心臓もない。脳もない。あるのは、無数の魂だけ。それらが絡み合い、一つの巨大な存在を形作っている。
「先生……」
ミアの声が震えている。
「逃げたほうがいいんじゃ……」
「ああ」
俺は答えた。
「お前は逃げろ」
「先生は?」
「俺は残る」
「どうしてですか?」
「医者だからだ」
ミアが目を見開く。
「こんな状況でも……?」
「こんな状況だからだ」
俺は空を見上げた。
あの存在に取り込まれている魂の数は、千どころではない。一万。それ以上かもしれない。魂一つ一つが別の人間。それが混ざり合い、巨大な塊になっている。
「……まだ生きている魂もある」
俺には分かる。完全に消えてはいない。無数の魂が、巨大な存在の内部で押し潰されながら残っている。
「助けられるんですか?」
「分からない」
「先生でも?」
「やったことがない」
俺は自分の手を見る。
魂魔法で身体を作り直す。魂を修復する。魂を切り離す。それならできる。
だが、あれは規模が違う。一つの存在の中に、数え切れないほどの魂が存在している。
「……なら、試すしかない」
俺は空へ手を伸ばした。
「《魂視》」
世界の見え方が変わる。
街。人間。建物。そして、その上に重なる魂の情報。巨大な存在の内部が見える。
「……なるほど」
俺はすぐに理解した。
中心に核がある。無数の魂が、一本の巨大な魂へまとめられている。そして、その核から命令が出されている。
「中心を壊せば、全員死ぬ」
「では……」
ヴァルドが剣を握る。
「どうする?」
「壊さない」
俺は答えた。
「分離する」
ヴァルドが目を見開く。
「できるのか?」
「分からない」
俺は空を見上げた。
「だが、俺の魔法は魂を分けるためにも使える」
「どうやって?」
「一つずつ切る」
あまりにも単純な答えだった。
俺は魔力を集中させる。巨大な存在から、最も外側にある魂を一つ掴む。
「《魂魄分離》」
黒い光が走った。巨大な存在が初めて動いた。
「――――!」
声ではない。街そのものが震えるような咆哮。
建物の窓が割れる。地面が揺れる。人々が耳を塞ぐ。だが、俺は手を止めなかった。
一つの魂が、巨大な塊から切り離される。
「よし」
魂は無傷。その人物の姿が現れる。二十代ほどの女性だった。意識はない。俺はすぐに地面へ新しい身体を構築する。
元の身体の情報は魂に残っている。なら、作れる。
「《身体構築》」
骨。筋肉。内臓。神経。そして脳。身体が完成する。
「《魂魄定着》」
魂が身体へ戻る。女性が息を吸った。
「……っ」
生きている。
「一人、救出できた」
だが――巨大な存在がこちらへ向きを変えた。
「来るぞ!」
ヴァルドが叫ぶ。黒い腕のようなものが空から伸びてくる。俺は避けなかった。
「《魂壁》」
腕が俺の前で止まる。だが、力が強い。魂壁が軋む。
「……なるほど」
俺は相手の構造を見る。
力の源は魂だ。一つ一つの魂が魔力を供給している。
つまり――魂を減らせば、弱くなる。
「ヴァルド」
「なんだ!」
「ここにいる人間を避難させろ」
「お前は?」
「俺はこいつを治す」
「治すって……あれをか?」
「患者だからな」
ヴァルドは一瞬だけ呆れた顔をした。だが、すぐに頷いた。
「分かった!」
ヴァルドが走っていく。
俺は巨大な存在へ向き直る。
「さて」
俺は手を伸ばす。
「一人ずつ返してもらうぞ」
《魂魄分離》。
また一つ。また一つ。魂を切り離していく。
身体を作る。魂を戻す。一人。二人。十人。百人。救出した魂は、次々と新しい身体へ戻していく。
だが、数が多すぎる。巨大な存在の魂は、ほとんど減ったように見えない。
「……千人以上か」
それでも続ける。俺にはそれしかできない。医者が患者を前にして、治療を諦める理由などない。
何時間経っただろう。空が少しずつ明るくなってきた。
俺はすでに数百人の魂を救出していた。だが、巨大な存在はまだ残っている。
むしろ――変化していた。
「……おかしい」
俺は目を細めた。
取り込まれている魂が減っているのに、存在そのものの密度が増している。
「吸収しているのか」
救出した魂が抜けた場所へ、新しい魂が流れ込んでいる。王都の外から。
「まだ別の場所にも術式がある」
俺は気づいた。
王都だけではない。周辺の街。村。さらに遠くの地域。そこから魂が吸い上げられている。
「……国全体を使うつもりか」
その瞬間、巨大な存在の中心が開いた。その奥に、人間の顔が浮かび上がる。男。女。老人。子供。無数の顔が現れては消えていく。
そして、その中に――見覚えのある顔があった。
「……」
俺は動きを止めた。そこに浮かんだのは、俺自身の顔だった。
「先生?」
ミアの声が遠くから聞こえる。
俺は答えられなかった。
巨大な存在の中に、俺の魂と同じ波長を持つものが存在している。俺だけが持っているはずの魂魔法。その起源を知っているような存在。
「……お前は何だ」
問いかけても返事はない。だが、巨大な存在の中心にある魂が動いた。そして俺の魂へ向かって、一本の魔力が伸びてきた。
触れた瞬間。頭の中に大量の記憶が流れ込んだ。知らない場所。知らない時代。白い塔。大量の人間。
そして――
一人の男。
俺によく似た男が、巨大な魔法陣の前に立っている。男が誰かに言っている。
『魂魔法は完成した』
『これで人間は死を克服できる』
俺は息を呑んだ。記憶が途切れる。俺は頭を押さえた。
「……何だ、今の」
知らない記憶。俺の記憶ではない。だが、魂だけが知っている。そして最後に聞こえた言葉。
『次の器が必要だ』
俺は顔を上げた。巨大な存在が、こちらを見ている。いや。見ているのではない。
俺を器として認識している。
俺は初めて理解した。この怪物が欲しいのは、人間の魂ではない。
最終的に必要としているのは俺の魂魔法そのものだ。
そして次の瞬間、王都の地下から、巨大な魔力が噴き上がった。地面に亀裂が走る。その中心から、一本の黒い腕が現れる。
俺はそれを見て、目を細めた。
「……まだ本体が地下にいるのか」
空に浮かぶ怪物は、ただの入口。
本当の敵は――王都の地下にいる。
俺は黒い腕へ向かって歩き出した。
「なら、患者のところへ行くか」
俺は地下へ続く亀裂を見下ろした。
「治療が必要なのは、あいつのほうらしい」




