金貨三百枚の代わり
「こっちです!」
少女に手を引かれながら、夜の街を走る。
少女の名前はミア。それだけは、診療所を出る前に聞いていた。母親の名前は知らない。聞いても教えてくれなかった。そんな余裕がなかったのだろう。
「あとどれくらいだ?」
「すぐです!」
ミアは必死に走っている。何度も転びそうになりながら、それでも立ち上がる。俺はその背中を見ながら、少しだけ歩く速度を落とした。患者の家に着いたのは、それから十分ほど経った頃だった。
古びた木造の家。扉を開ける。
「お母さん!」
ミアが中へ飛び込んだ。俺も続く。部屋の奥。粗末なベッドの上に、一人の女性が横たわっていた。
顔色は悪い。胸は動いていない。すでに死んでいる。
「いつ死んだ?」
「分かりません……」
「最後に息をしていたのは?」
「私が帰ってきたときには、もう……」
「何時だ?」
「一時間くらい前です」
一時間。それなら、まだ間に合う。俺は女性の身体に触れた。冷たくなり始めている。死後硬直もまだ始まっていない。
俺は目を閉じる。魔力を流す。魂の痕跡を探す。
「……いた」
ミアが顔を上げる。
「お母さんは……?」
「魂は残っている」
「じゃあ……」
「ああ」
俺は頷いた。
「まだ蘇生できる」
ミアの目に涙が浮かんだ。
「お願いします!」
「ただし、勘違いするな」
俺は女性の身体を見る。
「これは治療じゃない」
「……?」
「この身体はもう死んでいる」
俺は手をかざした。
「使えない」
ミアが息を呑む。
「じゃあ……」
「新しく作る」
俺は魔力を集中させた。女性の身体が淡い光に包まれる。ミアが不安そうに見つめている。
「何をするんですか?」
「魂を抜く」
「でも……」
「もう死んでいる」
俺は淡々と答える。
「だから問題ない」
「……」
「それに、魂が残っているなら俺は治療できる」
俺は女性の胸へ手を置いた。
「《魂魄離脱》」
光が身体から抜け出した。魂が現れる。女性の姿をした魂。目を閉じたまま、空中に浮かんでいる。もちろん、何も話さない。
俺は魂を見つめる。そして、すぐに違和感に気づいた。
「……なるほど」
「どうしたんですか?」
「病気だ」
「お母さんが?」
「ああ」
魂の中に、黒い斑点が広がっている。心臓。肺。肝臓。腎臓。複数の臓器に異常がある。
だが、もっとも問題なのは魂そのものだった。病気によって長い時間をかけて肉体が蝕まれ、その情報が魂にも刻まれている。このまま肉体を再構築すれば、病気まで再現される。
「かなり長い間、病気を患っていたな」
「……はい」
ミアが答える。
「ずっと病気でした」
「病名は?」
「分かりません」
「医者には?」
「お金がなくて……」
俺は黙った。なるほど。治療を受けられないまま、病気が進行した。そして死んだ。ありふれた話だ。この国では珍しくない。
俺は魂の状態を調べ続ける。
「病気そのものは治せる」
「本当ですか?」
「ああ」
俺は魂に魔力を流した。
「ただし、身体だけ作っても意味がない」
魂に刻まれた病気の情報を一つずつ取り除いていく。
肺の異常。心臓の異常。腎臓の異常。長い年月をかけて染みついた病気を、時間をかけて消していく。
ミアは何も言わず、俺の作業を見ていた。
やがて魂から黒い影が消えた。
「終わった」
「……」
「これで、病気はない」
俺は魂を確認する。問題ない。肉体を作る。俺は魔力を集めた。
骨が生まれる。筋肉が生まれる。血管が生まれる。内臓が生まれる。そして、心臓。
先ほどまで病に侵されていたものとは違う。健康な心臓だ。
そして女性の身体が完成した。俺はその身体を診察する。
「問題ない」
そして魂を重ねる。
「《魂魄定着》」
魂が身体へ吸い込まれていく。しばらくして女性の胸が動いた。一度。二度。三度。肺が空気を取り込む。心臓が動き始める。
「……」
女性の指が動いた。ミアが駆け寄る。
「お母さん!」
女性の目が開く。
「……ミア?」
その声を聞いた瞬間、ミアは母親に抱きついた。
「お母さん!」
「ミア……どうしたの?」
「よかった……」
泣きながら母親の胸に顔を埋める。女性は困惑している。当然だ。彼女には死んでいた間の記憶がない。自分が死んだことも、身体が作り直されたことも、何も知らない。ただ、病気で苦しんでいたはずなのに、身体が驚くほど軽い。
「先生……」
ミアが振り返る。
「ありがとうございました」
俺は頷いた。
「治療は終わりだ」
「お金……」
「そうだな」
ミアの顔が曇る。
「……金貨三百枚ですよね」
「ああ」
「ありません」
「知っている」
「家もありません」
「そうか」
「だから……」
ミアは深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
「何がだ?」
「治療してもらったのに、お金を払えません」
俺は少し考えた。本来なら帰す。俺は慈善事業をしているわけではない。
金貨三百枚という治療費を設定しているのには理由がある。魂魔法は極めて危険だ。患者の魂を抜き、肉体を再構築する。失敗すれば本当に取り返しがつかない。だからこそ、治療にはそれだけの価値がある。
しかし。俺はミアを見る。小さな身体。痩せた腕。穴の開いた靴。母親も、どう見ても金貨三百枚を払える人間ではない。
「分かった」
「……え?」
「今回は金を取らない」
ミアが目を丸くした。
「本当に?」
「ああ」
「どうして……?」
「代わりに仕事をしろ」
「仕事?」
「俺の診療所で働け」
ミアが固まる。
「私が……?」
「掃除。洗濯。薬品の整理。食事の用意。それくらいはできるだろ」
「できます!」
即答だった。
「明日から来い」
「はい!」
ミアは涙を拭きながら頷いた。母親が申し訳なさそうに頭を下げる。
「本当に……ありがとうございます」
「礼はいらない」
俺は二人を見る。
「金貨三百枚分、しっかり働いてもらうだけだ」
「はい!」
ミアが笑った。その顔を見て、俺は診療所へ戻ろうとした。だが。
「先生」
母親が俺を呼び止めた。
「なんだ?」
「一つだけ、聞いてもいいでしょうか」
「答えられることなら」
女性は自分の胸に手を当てる。
「私の病気は……どうやって治したんですか?」
俺は少し黙った。そして答えた。
「秘密だ」
「……そうですか」
「知らないほうがいい」
女性は不思議そうな顔をした。俺はそれ以上何も言わず、家を出た。外へ出ると、夜風が吹いていた。
「魂魔法」
誰にも知られてはいけない力。知られれば、俺は医者ではなく犯罪者になる。この国では、魂への干渉は禁忌だ。ましてや、人間の魂を抜き取って肉体を作り直すなど。まともな人間から見れば、死者を弄ぶ邪法としか思われないだろう。だから俺は、表の世界では医者になれない。それでも構わない。
患者が来る。俺は治す。金を払えるなら金を取る。払えないなら、別のものをもらう。それだけだ。
そう思って診療所へ戻った。
翌朝。診療所の扉を開けると、ミアが立っていた。
「おはようございます!」
「早いな」
「今日から働くので!」
「まず掃除をしろ」
「はい!」
ミアは嬉しそうに箒を持った。俺は診察室へ入る。机の上には、昨日の治療費として受け取った金貨三百枚が置かれている。それを眺めながら、今日も暇だろうと思った。
だが、昼を過ぎた頃、扉が叩かれた。
「先生、患者です!」
ミアの声。
「入れ」
扉が開く。入ってきたのは、見慣れない男だった。
黒い外套。腰には剣。その身体からは、隠しきれない殺気が漂っている。そして男は、左手で右目を押さえていた。
「……ここが、どんな傷でも治す闇医者の診療所か?」
「ああ」
「俺の目を治してほしい」
「見せろ」
男が手を離す。右目は潰れていた。ただの外傷ではない。俺は目を細めた。
「これは……」
目の奥。神経。そして魂。すべてに異常がある。俺は男を見る。
「お前、誰にやられた?」
男は答えなかった。代わりに懐から袋を取り出す。机の上に置く。
「金貨五百枚」
「……」
「これで足りるか?」
俺は袋を開けた。確かに金貨が入っている。
「十分だ」
「なら頼む」
男は椅子に座った。俺は彼の右目を見る。
「治療はできる」
「そうか」
「ただし、一つ問題がある」
「なんだ?」
「お前の目を潰したものは、普通の武器じゃない」
男の表情が変わった。
「分かるのか?」
「ああ」
俺は男の魂を見る。そして、そこに刻まれた異常を見つけた。右目から魂へ伸びる、奇妙な傷。まるで何かが魂そのものを切り裂いたような傷だった。
「これは……魂を斬る武器だ」
男が黙り込む。
「知っているのか?」
「ああ」
俺は椅子から立ち上がる。
「だから面白い」
男が息を呑む。
「お前の目を治すには、まず魂そのものを修復する必要がある」
そして俺は手を伸ばした。
「治療を始めるぞ」
その日、俺の診療所に初めて――
魂そのものを傷つける武器によって傷ついた患者がやってきた。




