右腕の値段
夜も深くなった頃、診療所の扉が開いた。
入ってきたのは、三十代ほどの男だった。左手で右肩を押さえている。その先にあるはずの右腕は、肘から先がなかった。
「そこに寝ろ」
「……ああ」
男は素直に診察台へ横になった。顔色が悪い。出血は止血処置によって抑えられているが、呼吸は浅い。
「腕を失ったのはいつだ?」
「半日前だ」
「原因は?」
「魔物に食いちぎられた」
「魔物の種類は?」
「黒牙狼」
黒牙狼。大型の狼型魔物で、牙に神経毒を持つ。噛まれた人間は傷口から毒が入り、手足の感覚を失う。その後、毒が全身に回れば死ぬ。
「右腕以外に傷は?」
「ない」
「そうか」
俺は男の身体を診察する。傷口そのものに問題はない。だが、男の顔色が妙に悪い。右腕を失ったことによる失血だけなら、ここまで衰弱するのは少しおかしい。
「三日前から右手に痺れはなかったか?」
男が目を見開いた。
「……あった」
「指先から始まったか?」
「ああ」
「徐々に広がった?」
「そうだ」
「なら、魔物に襲われる前から毒に侵されていたな」
「そんな……」
男の顔が青ざめる。
「右腕を失ったから毒がなくなったと思っていたか?」
「……そうだ」
「残念だが、黒牙狼の毒は魂にまで作用する」
俺は男の肩を見る。
「すでに魂へ侵食している」
「魂に……?」
「ああ」
男は唾を飲み込んだ。
「それも治せるのか?」
「治せる」
「本当に?」
「俺のところに来たんだから、それくらいは期待しているんだろう?」
「……ああ」
男はしばらく黙っていた。そして、意を決したように尋ねる。
「いくらだ?」
「金貨三百枚」
男の顔が固まった。
「……三百?」
「金貨三百枚」
「冗談だろ?」
「冗談を言っているように見えるか?」
男は黙り込んだ。この国では、金貨一枚あれば庶民がしばらく暮らせる。金貨三百枚ともなれば、普通の人間が簡単に払える金額ではない。
「高すぎる」
「なら正規の医者へ行けばいい」
「右腕を元通りにできるのか?」
「無理だろうな」
「……」
「俺ならできる」
俺は椅子から立ち上がった。
「だから三百枚だ」
男は拳を握った。
「払う」
「そうか」
「家を売る。それでも足りなかったら、借金してでも払う」
「治療が終わってから考えろ」
俺は男の胸に手を置いた。
「これから魂を抜く」
男の表情が強張った。
「それをやったら……死ぬんだろ?」
「ああ」
「本当に死ぬ?」
「死ぬ」
「……怖いな」
「目が覚めたら治療は終わっている」
「その間のことは?」
「何も覚えていない」
男は目を閉じた。
「分かった。頼む」
「では始める」
俺は魔力を集中させた。
「《魂魄離脱》」
光が男の身体から抜け出す。瞬間。男の肉体から完全に生命が失われた。
心臓が止まる。呼吸が止まる。脳の活動も止まる。
男は死んだ。だが、俺の前には一つの魂が浮かんでいる。俺はそれを両手で包み込む。
魂魔法。俺が持つ唯一のスキルにして、俺が医者として生きていくための力。魂には、その人間の肉体情報が刻まれている。
骨格。筋肉。臓器。血管。神経。脳。そして、現在の肉体がどういう状態だったのかという情報まで。
俺は魂の内部を調べる。右腕の欠損。黒牙狼の毒。そして、それによって生じた神経系の異常。
「やはりな」
毒はすでに右腕だけの問題ではない。魂の一部にまで侵食している。このまま肉体を再構築すれば、同じ毒を持った身体が完成してしまう。だから先に魂を治療する。
俺は魂に魔力を流した。黒く染まった部分を少しずつ取り除いていく。慎重に。ほんの少しでも魂そのものを削れば、肉体を再構築したときに重大な欠陥が生じる。魂魔法による治療で最も難しいのは、肉体を作ることではない。魂を傷つけずに異常だけを取り除くことだ。
数十分後。毒の痕跡が消えた。俺は続いて、魂に刻まれた肉体情報を読み取る。
本来の右腕。その形。長さ。筋肉のつき方。骨の太さ。神経の位置。すべてが記録されている。
「これなら問題ない」
俺は魂を空中に固定した。
「肉体再構築」
魔力が診療所いっぱいに広がった。
まず骨格が生まれる。頭蓋骨。背骨。肋骨。骨盤。腕。脚。一本一本の骨が組み上がっていく。
次に筋肉。血管。神経。内臓。肺。心臓。そして脳。最後に皮膚が形成される。
一時間ほどかけて、一人の人間の肉体が完成した。先ほどまで診察台に横たわっていた男と、まったく同じ姿。ただし。失われていた右腕がある。俺は完成した肉体を診察する。
心臓、正常。肺、正常。神経、正常。
右腕、問題なし。
そして最後に、魂を肉体へ重ねる。
「《魂魄定着》」
魂が肉体へ吸い込まれていく。しばらくして、男の胸が上下した。心臓が動き始める。呼吸が戻る。
「……う」
男が目を開けた。
「ここ……は……」
「俺の診療所だ」
男はぼんやりと周囲を見る。
「俺は……」
「治療した」
男が身体を起こす。そして右手を見る。
「……腕」
右腕がある。男は何度も指を動かした。
握る。開く。手首を回す。肘を曲げる。何の問題もない。
「本当に……」
男は右腕を抱きしめるようにして呟いた。
「生えてる……」
「元々あったものを作り直しただけだ」
「どうやって……」
「説明しても理解できないだろう」
「そうかもしれない」
男はしばらく右腕を眺めていた。やがて、俺を見る。
「治療費は?」
「金貨三百枚」
男の顔が引きつった。
「……やっぱり三百枚か」
「当然だ」
「もう少しまけてくれないか?」
「嫌だ」
即答した。
「俺は右腕を一本作っただけじゃない。お前の全身を一から再構築した。しかも魂に侵食した毒まで除去した」
「分かってる」
「なら払え」
男はため息を吐いた。
「分かった」
懐から袋を取り出す。
「これで全部だ」
机の上に、金貨が積まれていく。一枚。二枚。十枚。五十枚。百枚。
男は途中で手を止めた。
「……三百枚、確かにある。最初から持っていたんだな」
俺は一枚ずつ確認する。偽造品はない。
「確かに三百枚だ」
「これでいいな?」
「ああ」
「じゃあ、帰る」
男が立ち上がる。そして扉の前で振り返った。
「先生」
「なんだ」
「俺は、先生のことを悪い医者だと思っていた」
「今もそう思っているだろ」
男は苦笑した。
「いや」
右腕を見ながら言う。
「少なくとも俺にとっては、最高の医者だ」
「そうか」
男はそれ以上何も言わず、診療所を出ていった。
俺は机の上の金貨を見る。三百枚。悪くない。
俺は医師免許を持っていない。表の医療機関にも所属していない。治療方法は禁忌。治療費は法外。それでも患者は来る。治せない人間がいる限り、俺の仕事はなくならない。
そう思っていた。
だが翌日の昼。俺の診療所に、一人の少女がやってきた。一人だった。服装は粗末。靴も泥だらけ。手には何も持っていない。
少女は診療所の扉を開けると、俺の前まで歩いてきた。そして深々と頭を下げた。
「先生……」
「患者か?」
「はい」
「どこが悪い?」
少女はしばらく答えなかった。やがて、小さな声で言った。
「私じゃありません」
「では誰だ?」
「お母さんです」
「母親はどこにいる?」
「……家に」
「連れてこい」
少女はうつむいた。
「連れてこられません」
「なぜ?」
「もう……動けないから」
「なら運べ」
「それも……無理です」
少女は唇を噛んだ。そして震える手を握りしめる。
「治療費……」
「金貨三百枚」
少女の顔から血の気が引いた。
「……そんなお金、ありません」
「そうか」
「お願いします」
「金がないなら治療はできない」
少女が顔を上げた。その目には涙が浮かんでいた。
「お願いします……」
俺は少女を見る。
「ここは慈善診療所じゃない」
「……はい」
「金を払えないなら、帰れ」
少女は何も言わなかった。ただ、深く頭を下げた。そして診療所を出ていく。俺はその背中を見送った。別に珍しいことではない。
俺の治療費は高い。金貨三百枚。普通の人間には払えない。だから俺のところへ来る患者は、金を持っている者か、どうしても他に治療方法がない者だけだ。
それでいい。俺はそう思っていた。
ところが、その日の夜、再び扉が叩かれた。
「先生……!」
昼間の少女だった。息を切らし、泥だらけになっている。
「どうした?」
「お母さんが……」
少女は涙を流しながら言った。
「お母さんが、死にました」
俺は黙った。少女は震える声で続ける。
「お願いします……」
「……」
「お金はありません」
「……」
「それでも、お願いします」
俺は少女を見る。そして初めて気づいた。この仕事を続けていれば、いつか必ずこういう患者が来る。金を払えない。正規の医者にも行けない。それでも、俺なら治せる。
俺は椅子から立ち上がった。
「母親のところへ案内しろ」
少女が顔を上げる。
「……え?」
「急げ」
「でも……お金が……」
「治療費の話は後だ」
俺は診療所の扉を開けた。
「死んだばかりなら、まだ間に合う」
少女は泣きながら頷いた。俺は診療所を出る。
この夜。俺は初めて、金貨では買えない患者を診ることになった。




