最後の患者
白い。何もない。音もない。光すらない。俺は、自分の魂の中にいた。目の前には、巨大な魂が浮かんでいる。
いや。巨大に見えているだけだ。これは俺自身の魂。千年以上生き続けてきた俺の、すべてだった。
「……ひどいな」
思わず呟く。
身体の情報は正常。心臓も、肺も、脳も問題ない。だが、魂は違った。無数の傷が刻まれている。
古い傷。新しい傷。修復された痕跡。自分で無理やり繋いだ跡。そして、その中心に巨大な黒い亀裂があった。
「これが……」
俺は亀裂に触れる。その瞬間、記憶が流れ込んできた。
千年前。白い塔。研究室。俺。そして、ベッドの上で眠っているリゼ。
「先生……」
当時のリゼが弱々しく笑っている。
「私、助かるの?」
俺は答えられなかった。まだ魂魔法は完成していなかった。
肉体は作れる。魂も保存できる。だが、死にかけた魂を完全に戻すことだけができなかった。
そして。リゼは死んだ。
「……」
俺は目を閉じた。その光景は、何度見ても慣れない。俺はその後、魂魔法を完成させた。だが、間に合わなかった。だからリゼの魂を探した。
見つけた。だが、魂は欠けていた。俺はそれを修復しようとした。
何度も、何度も、失敗した。そのたびに魂は壊れた。それでも諦めなかった。
そしてある日、俺は気づいた。魂を修復するのではなく、魂が壊れる前に、すべてを保存すればいい。人間の魂を。記憶を。身体の情報を。全部。
そのために作ったのが、魂のネットワークだった。
「……最初から、間違えていたわけじゃない」
俺は呟いた。
最初は、本当に人を救いたかった。一人の少女を救いたかった。だが一人を救えなかった。
だから次は百人。百人を救えなければ千人。千人を救えなければ国。国を救えなければ世界。
いつの間にか。
「救うこと」が目的ではなくなっていた。
「失わないこと」が目的になっていた。
俺は黒い亀裂を見る。そこには、無数の黒い線が繋がっている。国中の魂へ。その先には世界中へ。さらにその先には、俺が知らない場所へ。
「これが代償か」
俺は理解した。
魂魔法は、何でもできる魔法ではない。魂を救うたびに。魂を作るたびに。俺自身の魂にも、その患者の情報が少しずつ刻まれていた。
俺は千年以上。数え切れないほどの人間を救ってきた。そのすべてが俺の魂に残っていた。俺の中には、何万人もの人間の痕跡がある。だから俺は死ななかった。死ねなかった。俺の魂が、一つの人間の魂ではなくなっていたからだ。
「……なるほど」
俺は笑った。
「俺自身が、最初の魂のネットワークだったわけか」
背後から声がした。
「そうだ」
振り返る。
そこには、もう一人の俺がいた。
「お前が人を救うたびに、その情報はお前自身に蓄積された」
「だから千年生きた」
「そうだ」
「そして俺が記憶を捨てたあと、お前はその情報を使ってネットワークを作った」
「ああ」
「つまり」
俺は男を見る。
「俺を殺せば、このネットワークは全部消える」
男は黙った。それが答えだった。
「……そういうことか」
俺は理解した。
この国を救うだけでは足りない。ネットワークを壊すだけでも足りない。俺自身が核になっている。俺が存在する限り、魂魔法は世界に繋がり続ける。
「だからお前は俺を最後の患者と呼んだんだな」
「ああ」
男は頷く。
「お前自身を治療できなければ、すべては終わらない」
「なら、簡単だ」
俺は自分の魂へ手を伸ばす。
「治す」
「できない」
「なぜだ」
「お前の魂には、お前が救ってきたすべての魂の情報が混ざっている」
「なら分ける」
「それをやれば、お前は千年以上積み重ねてきたものを失う」
「記憶を?」
「それだけではない」
男は静かに言った。
「力も」
俺は自分の魂を見る。これまでのスキル。覚えた魔法。身につけた知識。積み重ねてきた経験。そのすべてが、俺の魂に刻まれている。
それを切り離せば。俺は普通の人間になる。
「……それなら」
俺は笑った。
「別に構わない」
男が目を見開いた。
「何?」
「医者に必要なのは、世界を滅ぼせる力じゃない」
俺は自分の魂に触れる。
「患者を治す技術だ」
黒い亀裂へ指を入れる。痛みはなかった。ただ、今まで生きてきたすべてが、指先から流れ落ちていく。
魔法。知識。戦闘技術。スキル。千年間の記憶。
その一つ一つが、黒い亀裂から剥がれていく。
「やめろ!」
男が叫んだ。
「それを捨てれば、お前は何も残らない!」
「違う」
俺は首を横に振った。
「残る」
一つだけ。俺が最後まで捨てなかったもの。
「俺は医者だ」
その瞬間、魂が光った。黒い亀裂が消えていく。俺自身の魂から、無数の情報が分離していく。
三十二万八千四百十二の魂。それぞれの魂に、本来あるべき情報が戻っていく。
王。リナ。ヴァルド。エリナ。名も知らない患者たち。これまで俺が救った人間たち。
その魂から、俺が預かっていたものが返っていく。俺の魂が、軽くなる。身体から力が抜ける。魔力が消える。何千年分もの記憶が消えていく。
それでも不思議と怖くなかった。
「先生!」
遠くでリゼの声が聞こえた。
俺は目を開く。白い世界が崩れていく。空が見える。地面が見える。そして俺の前にリゼがいる。
「……大丈夫?」
「ああ」
立ち上がろうとして膝から崩れた。
「先生!」
リゼが支える。
身体が重い。息が苦しい。こんな感覚は、何百年ぶりだろう。
いや。もっと昔だ。人間だった頃以来だ。
「魔力が……ない」
俺は自分の手を見る。
何も感じない。魂魔法も。他の魔法も。何も。
「本当に……全部捨てたの?」
リゼが聞く。
「たぶんな」
「後悔してない?」
俺は少し考えた。そして答える。
「してない」
そのとき。空に浮かんでいた男が、ゆっくりと消え始めた。
「俺も……消えるのか」
「ああ」
「そうか」
男は穏やかに笑った。
「これで、ようやく終われる」
「……お前も俺だったからな」
「いや」
男は首を横に振った。
「俺は、お前が捨てたものだ」
そして最後に。
「でも、お前が俺を否定しなかったことだけは……嬉しいよ」
光が消える。男の姿も消えた。同時に空を覆っていた巨大な門が崩壊した。
無数の魂が、それぞれの身体へ戻っていく。一人。また一人。王国中で、人々が目を覚ましていく。
誰も何が起きたのか理解していない。
ただ。生きている。それだけだった。
俺は地面に座り込んだまま、空を見上げた。
長かった。あまりにも長かった。千年。俺は死を恐れていた。失うことを恐れていた。だから、何でもできる力を手に入れた。
けれど。最後に俺が選んだのは。何もできない自分だった。
「先生」
リゼが俺を見る。
「これから、どうするの?」
俺は少し考える。そして。
「診療所に戻る」
「……それだけ?」
「ああ」
「また闇医者をやるの?」
「金は取る」
「そこは変わらないんだ」
「当然だ」
俺は立ち上がった。身体は重い。魔力もない。スキルもない。千年間の知識も、そのほとんどが消えている。
それでも、一つだけ残っている。
患者を診る。病気を見つける。治療する。それだけなら今の俺にもできる。
俺は歩き出した。
その背後で、最後の魂が、静かに光った。
そして遠い空の彼方。まだ誰にも知られていない場所で、一つの目が開いた。




