医者の仕事
朝。窓から差し込む光で、俺は目を覚ました。
「……朝か」
身体が重い。ベッドから起き上がるだけで、少し息が切れる。昔なら、この程度の疲労など感じなかった。千年以上生きてきた身体は、いつの間にか人間の身体に戻っていた。
魔力もない。スキルもない。魂魔法も使えない。俺は自分の手を眺める。何の変哲もない、人間の手だった。
「先生、起きた?」
扉の向こうから声がする。
「起きてる」
「朝ご飯できてるよ」
「分かった」
扉が開く。リゼが顔を出した。
「今日は患者さん、来るかな」
「来るだろ」
「どうして?」
「診療所を閉めてないからな」
「そういう意味じゃなくて」
リゼが笑った。俺は椅子に座る。
机の上には簡単な朝食が置かれていた。以前なら食事など必要なかった。魔力さえあれば、生きていけた。
今は違う。腹が減る。喉も渇く。眠くなる。そして。食べれば美味い。
「……悪くない」
「それ、褒めてる?」
「褒めている」
リゼが笑った。
食事を終えたところで、診療所の扉が叩かれた。
「先生!」
ミアの声だった。
「開いてるぞ」
扉が勢いよく開く。
「大変!」
「何だ」
「患者さん!」
「患者なら診る」
「そうじゃなくて!」
ミアが息を切らしている。
「王都中から患者さんが来てる!」
俺は窓の外を見る。診療所の前には、人が並んでいた。十人。二十人。いや、もっといる。
「……多いな」
「そりゃそうだよ」
ミアが呆れたように言った。
「昨日まで死にかけてた人たちが、みんな先生に診てもらったって話になってるんだから」
「俺が治したことは知られてないはずだ」
「誰が治したかは知らなくても、先生の診療所から生きて出てきた人が大勢いるんだよ」
「なるほど」
俺は立ち上がる。
「じゃあ、診るか」
「待って」
リゼが俺を見る。
「先生、今の身体で大丈夫なの?」
「大丈夫だ」
「魔力もないのに?」
「医者に魔力は必須じゃない」
「でも魂魔法は?」
「もう使えない」
俺は答えた。
「使う必要もない」
リゼは少しだけ寂しそうな顔をした。俺はそれに気づいた。
「何だ」
「ううん」
彼女は笑う。
「ただ、先生が普通の人になったんだなって」
「普通で悪いか?」
「ううん」
リゼは首を振った。
「その方がいいと思う」
診療所の外から、また扉を叩く音がした。
「先生!」
患者の声。
「早く!」
「順番に入れ」
俺は診察室へ向かった。
最初の患者が入ってくる。老人だった。
「先生……」
老人は苦しそうに胸を押さえている。俺は椅子を勧めた。
「座れ」
「はい」
「いつから痛む?」
「三日前からです」
「食事の後に悪化するか?」
「……します」
「熱は?」
「ありません」
俺は脈を取る。胸の音を聞く。目を見る。舌を見る。手を握る。
「胃だな」
「分かるんですか?」
「分かる」
俺は薬を出した。
「これを食後に飲め。三日で改善しなければまた来い」
老人は薬を受け取る。
「いくらです?」
「銀貨二枚」
「……安い」
「普通だ」
老人は何度も頭を下げて出ていった。
二人目。三人目。四人目。患者は途切れない。俺は一人ずつ診察した。
病気を見つける。薬を処方する。必要なら処置をする。
昔とは違う。魂を見ることはできない。身体の中を直接確認することもできない。
それでも、俺は患者を診られる。それで十分だった。
昼を過ぎた頃。ミアが診察室に入ってきた。
「先生」
「何だ」
「外に変な人がいる」
「患者か?」
「分からない」
「なら通せ」
しばらくして、一人の男が入ってきた。
黒い服。長い髪。顔は見えない。
「医者」
「何だ」
「お前に聞きたいことがある」
「患者じゃないなら帰れ」
「そう急くな」
男が顔を上げる。俺は目を細めた。知らない顔だ。だが。妙な既視感がある。
「お前は魂魔法を使えるか?」
「使えない」
「本当に?」
「本当だ」
男は黙って俺を見る。
「では、あの門は?」
「知らない」
「王国中の魂を救ったのは?」
「知らない」
「なら、なぜお前だけが生き残った?」
「俺が聞きたい」
男はしばらく俺を見つめ、突然、笑った。
「なるほど」
「何がだ」
「本当に何も残っていない」
俺は眉をひそめた。
「何者だ?」
男は答えなかった。代わりに、懐から小さな黒い欠片を取り出した。あの黒い金属。ヴァルドが持っていたものと同じだった。
「……それをどこで手に入れた」
「遠い場所だ」
「何のために来た?」
男は黒い欠片を握る。
「確認しに来た」
「何を?」
「魂魔法が、本当に終わったのか」
俺は答える。
「終わった」
「そうか」
男は笑った。
「なら、安心した」
立ち上がる。
「何の話だ」
「そのうち分かる」
男は診療所を出ていった。
俺はその背中を見送る。
「先生?」
リゼが隣に来る。
「今の人、何だったの?」
「さあな」
俺は椅子に座り直した。
「ただの変人だろ」
「……本当に?」
「知らん」
そして、次の患者が入ってきた。
「先生、お願いします」
「座れ」
「はい」
俺は患者を見る。
顔色が悪い。呼吸が少し浅い。手に震えがある。
「いつからだ?」
「昨日からです」
「分かった」
診察を始める。それだけだ。それだけでいい。俺はもう、世界を救わない。死を克服しない。すべての魂を一つにもしない。目の前にいる一人を診る。
治せるなら治す。治せないなら、その理由を探す。金が払えないなら。……まあ、そのときは考える。
「先生」
「何だ」
「助かりますか?」
患者が不安そうに尋ねる。
俺は少し考えた。そして答えた。
「助ける」
それだけ言った。
患者の顔から、少しだけ緊張が消えた。窓の外では、太陽が傾き始めている。
長い一日だった。だが。明日もきっと、患者は来る。
俺は医者だ。それなら、明日も仕事をするだけだ。
――そして。誰も知らない遥か彼方。
黒い空間に、一つの巨大な門が浮かんでいた。
その門の向こう側には、無数の魂が存在している。
しかし、もう、誰もそれらを束ねてはいなかった。
一つずつ。それぞれの場所で。それぞれの命として静かに存在している。
その中心に一つだけ、小さな光があった。
それは魂だった。誰のものかは分からない。だが、その魂には、たった一つの記録だけが残されていた。
――治療を続ける。光が消える。門も消える。世界は、静かになった。
そして翌朝、診療所の扉が叩かれた。
「先生!」
俺は目を覚ます。
「……今行く」
新しい患者が来た。それなら医者の仕事を始めよう。




