1人ずつの命
魂が、裂けた。
音はなかった。それでも俺には分かった。
三十二万八千四百十二の魂を無理やり一つに束ねていた黒い線が、一本、また一本と切れていく。巨大な存在の身体が崩れ始めた。
「馬鹿な……」
空中に浮かぶ男が呟く。
「一つに統合された魂を、再び分離するなど……」
「できる」
俺は答えた。
「俺の魔法だからな」
「違う。魂は一度統合されたら、個体としての境界を失う。記憶も人格も生命情報も混ざり合う。それを分ければ、誰が誰なのか分からなくなる」
「だから診る」
俺は巨大な魂に手を触れた。無数の情報が流れ込んでくる。
名前。年齢。身体。病歴。怪我。毒。呪い。記憶。家族。仕事。故郷。好きなもの。嫌いなもの。誰かを愛した記憶。誰かに愛された記憶。
一人分の人生。それが三十二万以上。
「……なるほど」
俺は理解した。
統合された魂は完全に混ざっているわけではない。境界が壊されているだけだ。本来なら、それぞれ別々に存在していた魂の情報が、黒い線によって無理やり束ねられている。だから、戻せる。
「《魂魄診断》」
視界いっぱいに広がる魂を見つめる。その中から一つの情報を探す。
名前。記憶。身体。生命力。それぞれの組み合わせ。一人の人間を構成する情報を拾い上げる。
「見つけた」
光が一つ、巨大な魂から分離した。小さな魂だった。俺の手の中で静かに浮かんでいる。
「まず一人」
「先生……」
リゼが息を呑む。
俺はその魂を診断する。肺に軽い病変。右肩に古い損傷。黒い線が一本。それだけだった。
「治療する」
黒い線を切る。病変を修復する。魂に残った損傷を整える。
「《身体構築》」
身体が作られる。成人男性。身長。骨格。筋肉量。臓器。すべて魂に刻まれた情報通り。
「《魂魄定着》」
身体が息を吸った。一人目が蘇った。
俺は次へ進む。二人目。三人目。四人目。五人目。治療は続いた。
「……十人」
リゼが数える。
「二十人」
さらに十人。
「五十人」
まだ止まらない。
「百人……」
俺の魔力が急速に減っていく。身体も限界に近づいていた。だが、魂の数はほとんど減っていない。
三十二万。その数字は、あまりにも巨大だった。
「先生」
リゼが俺の腕を掴んだ。
「もういい」
「よくない」
「でも、このままだと先生が死ぬ」
「死んだら、そのとき考える」
「そういう問題じゃない!」
珍しくリゼが声を荒らげた。
俺は彼女を見る。
「あなたは昔からそう」
リゼの声が震えている。
「自分が死ぬことを、いつも最後に考える」
「医者だからな」
「違う」
リゼは首を横に振った。
「先生は、昔から自分を患者だと思ってない」
俺は黙った。その言葉は、妙に胸に残った。
「先生だって、人間でしょう」
「……」
「なら、自分も治療してください」
リゼの言葉を聞いて、俺は自分の魂を診た。
黒い染み。魔力枯渇。肉体疲労。魂への負荷。
そして、俺自身の魂の奥に古い傷があった。それは以前から存在していたものだった。リゼを救えなかったときについた傷。
俺はそれを見つめる。
「まだ残っていたのか」
「何が?」
「俺の中の傷だ」
リゼが俺の顔を見る。
俺は自分の魂に触れた。修復することはできる。だが、しなかった。
「これは残しておく」
「どうして?」
「忘れないためだ」
俺は再び患者へ手を伸ばした。
「忘れたら、また同じことをする」
空中の男が、じっと俺を見ていた。
「……理解できない」
「何がだ」
「なぜそこまでして他人を救う?」
「医者だからだ」
「それだけか?」
「それ以上必要か?」
男は苦しそうに顔を歪めた。
「私は、お前から切り離された記憶だ」
「知っている」
「お前が千年前に捨てたものだ」
「それも知っている」
「ならば分かるだろう」
男は胸を押さえた。
「私は、お前が耐えられなかったものすべてを背負っている」
俺は黙って聞いた。
「リゼが死んだこと」
「……」
「救えなかった患者たち」
「……」
「何千年経っても繰り返される死」
男の声が震える。
「お前は、それを見続けることに耐えられなかった」
「だから記憶を捨てた」
「ああ」
男は頷いた。
「そして私は考えた」
その顔に、かつての俺と同じ苦悩が浮かぶ。
「一人ずつ救うから間に合わない」
「……」
「ならば全員を一つにすればいい」
俺は男を見つめた。
「お前は俺の絶望だったんだな」
「そうだ」
「だから、俺と同じ顔をしている」
「そうだ」
「そして、お前が作ったこの国全体の魂のネットワークは……」
「お前の願いを完成させるためのものだ」
男が両手を広げた。
「死をなくす」
「違う」
俺は首を横に振った。
「お前は死をなくしたかったんじゃない」
「……」
「失うことをなくしたかったんだ」
男は答えなかった。俺は再び患者へ向き直る。
「でも、それはできない」
「なぜだ」
「人間だからだ」
一人が生まれれば、いつか死ぬ。誰かと出会えば、いつか別れる。大切なものを手に入れれば、失う可能性も生まれる。それを完全になくすことは、人間として生きることそのものを否定することになる。
「だから俺は、死を克服しない」
「……」
「死にそうな奴を、その都度救う」
俺は手を伸ばした。
「一人ずつな」
また一つ。魂が分離する。診断する。修復する。身体を作る。魂を戻す。また一人。そしてまた一人。
時間の感覚がなくなっていく。
百。千。万。魂の数が減っていく。
やがて巨大な魂の塊は、少しずつ小さくなっていった。
だが、その中心に。一つだけ。異質な魂が残っていた。
俺は手を止める。
「……これは」
そこにあったのは、一人の魂だった。だが、他の魂とは違う。黒い線に繋がっていない。呪いもない。病気もない。欠損もない。完全な魂。
そして、その魂に刻まれていた情報は。
俺自身のものだった。
「先生?」
リゼが近づく。俺はその魂を見つめた。
「これが最後か」
空中の男が言った。
「そうだ」
「お前なのか?」
「違う」
男は首を横に振る。
「私はお前の記憶だ」
「では、これは?」
「お前自身だ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが繋がった。
千年前。俺は魂魔法を完成させた。リゼを救うためだった。だが、そこで終わらなかった。死を克服できる可能性を知った俺は、さらに研究を続けた。そして気づいた。
魂を完全に保存できるなら。肉体を作り直せるなら。死者を蘇らせることができる。ならば。すべての人間を救えるのではないか。
その考えが、少しずつ変質していった。
一人を救う。それでは足りない。百人を救う。それでも足りない。国を救う。世界を救う。そして最後には、世界そのものを一つの魂にする。
その途中で、俺は恐ろしくなった。だから記憶を切り離した。そして、残された記憶が一人で研究を続けた。
俺が忘れていたことを。俺が捨てたものを。俺が見たくなかった未来を。すべて知っている存在として。
「……馬鹿だな」
俺は呟いた。男が苦しそうに笑う。
「そうだな」
「俺も」
「そうだ」
二人とも笑った。
そして俺は、最後に残った魂へ手を伸ばした。
「じゃあ、治療するか」
「待て」
男が声を上げる。
「それを治療したら、お前は――」
「分かっている」
俺は答えた。
「これは俺自身だ」
自分の魂を診断する。そして、初めて気づいた。そこには病気があった。毒も。呪いも。魂の損傷も。そして長い年月をかけて蓄積した、巨大な魔力の歪み。
俺は苦笑した。
「……患者は最後まで自分だったか」
リゼが静かに言った。
「先生」
「ああ」
「今度は、自分を救って」
俺は目を閉じた。そして、自分自身の魂へ手を伸ばす。
「《魂魄診断》」
世界が白く染まった。




