国という患者
空が裂けた。王都の上空に巨大な亀裂が走り、その向こうから無数の眼がこちらを見下ろしている。
一つではない。十。百。千。数え切れないほどの眼が、王都にいる人間を見ていた。
「……何だ、あれは」
ヴァルドが呟く。俺は答えなかった。すでに診断を始めている。王都にいるすべての魂を、同時に見る。
三十二万八千四百十二。その数字が頭の中に浮かんだ。
全員の魂に黒い線がある。だが、完全に同じではない。
軽症。中症。重症。そして――末期。
「まずいな」
「何がですか?」
ミアが聞く。
「時間がない」
王が王座から立ち上がろうとする。
「国民を救えるのか?」
「救える」
「本当に?」
「全員は無理かもしれない」
王の顔が曇る。
「だが、やる」
俺は王を見る。
「それが医者の仕事だ」
「……そうか」
王は目を閉じた。
「ならば、頼む」
その瞬間、王の魂から巨大な黒い線が伸びた。
「来るぞ!」
ヴァルドが剣を構える。天井を突き破り、黒い腕が落ちてくる。俺はそれを見た。以前見たものと同じだ。魂を無理やり束ねた腕。だが、今度は規模が違う。腕の一本一本が、何千もの魂で構成されている。
「ヴァルド」
「分かっている」
「斬るな」
「またそれか」
「中に患者がいる」
「……了解した」
ヴァルドは剣を収めた。
「なら、俺は何をすればいい?」
「守れ」
「誰を?」
「全員だ」
「簡単に言うな」
「できるだろう?」
ヴァルドは一瞬だけ俺を見る。そして笑った。
「無茶を言う医者だ」
彼が王とミアの前に立つ。
俺は魔法陣へ手を伸ばした。
「《魂魄分離》」
黒い線が一本切れる。
次の瞬間。王都のどこかで、一人の魂が術式から解放された。俺はその魂を追う。場所を特定する。身体の状態を確認する。魂に残った傷を治す。そして身体を再構築する。
「一人目」
魂を身体へ定着させる。
「二人目」
別の魂を切る。
「三人目」
また一人。
「四人目」
五人。十人。百人。俺の魔力が王都全体へ広がっていく。
一人ずつではない。同時に治療する。魂を切り離し、損傷を確認し、必要なら修復し、身体を作る。そして魂を戻す。
これまで一人の患者を治療するために使っていた魔法を、何百人、何千人という規模で同時に行う。
「……無茶苦茶だ」
ヴァルドが呟いた。
「何が?」
「お前がやっていることだ」
「そうか?」
「普通なら、一人の魂を扱うだけでも命懸けだろう」
「慣れている」
「そういう問題か?」
俺は答えない。目の前に次々と患者が現れる。倒れていた兵士。泣き叫ぶ子供。路地裏で眠っていた老人。市場にいた商人。王都に暮らすすべての人間。
一人ずつ、確実に。俺は治していく。
だが――
「先生!」
ミアの声が響いた。
「何だ?」
「王様の魂が……!」
俺は王を見る。王の魂が黒く染まっている。
「まだ術式が残っている」
俺は王へ近づく。
「動くな」
「分かった」
俺は王の魂へ魔力を入れる。
だが、触れた瞬間、弾き飛ばされた。
「……強い」
「治せないのか?」
「そういう意味じゃない」
王の魂に刻まれた術式は、これまでとは違う。
国民の魂から吸い上げた魔力を、王の魂へ集める構造になっている。王自身が巨大な蓄電池になっている。そして、そのエネルギーが空の裂け目へ送られている。
「これを止めるには、王の魂から全部抜く必要がある」
「なら、抜いてくれ」
「死ぬぞ」
王は俺を見る。
「……死ぬのか?」
「魂が空になる」
「そうか」
王は少し考えた。
「なら、やってくれ」
ミアが驚く。
「王様!」
「国民が助かるなら、それでいい」
「だが、お前が死ねば国はどうなる?」
王は苦笑した。
「王が死んでも国は残る」
そして俺を見る。
「だが、国民が死ねば国そのものが消える」
俺は王の魂を見る。
「……分かった」
魔力を集中させる。
「少し痛む」
「構わない」
「かなり痛む」
「それでもいい」
「死ぬかもしれない」
王は笑った。
「それはお前が医者なら、どうにかしろ」
「無茶を言う」
俺は手を伸ばした。
「だが、嫌いじゃない」
「《魂魄抽出》」
王の魂が身体から離れる。王の身体が崩れ落ちる。ヴァルドが受け止める。俺の前に、王の魂が浮かんだ。巨大だ。だが、その大部分は他人の魂から奪った魔力で膨らんでいる。
「……これなら」
俺は王の魂から、一つずつ黒い線を切っていく。
千。一万。十万。黒い線が消えるたび、王の魂が小さくなっていく。
そして――最後の一本を切った。
王の魂は、本来の大きさへ戻った。
俺は解析する。損傷あり。かなり深い。だが、修復可能。
「《魂魄修復》」
傷を塞ぐ。病巣を除去する。そして新しい身体を作る。
「《身体構築》」
王の身体を再構築する。最後に魂を戻す。
「《魂魄定着》」
王が息を吸った。
「……生きている」
「生きている」
「国民は?」
「まだ治療中だ」
「そうか」
王は空を見上げた。その表情が変わる。
「……まだ終わっていないな」
俺も空を見る。裂け目は消えていない。むしろ大きくなっている。そして、その向こうから一人の男が現れた。
俺と同じ顔。だが、これまで見た存在とは違う。身体がある。完全な身体。黒い衣服。白い髪。
そして、その魂は――俺の魂と完全に同じだった。
「……なるほど」
俺は呟いた。老人が震える。
「来た……」
「知っているのか?」
「知っているとも」
老人は恐怖に顔を歪めた。
「あれが、我々が千年間待ち続けた存在だ」
男が空から降りてくる。地面には足をつけない。ただ俺を見ている。
「久しぶりだ」
その声を聞いた瞬間。俺の中に、最後の記憶が蘇った。
千年前。白い塔。俺はリゼを救った。魂魔法は完成した。だが、俺は一つだけ恐れていた。
この魔法が誰かの手に渡れば、人間は死を克服する。それ自体は悪くない。問題は、その先だった。
身体を交換できる。魂を保存できる。
ならば――
「他人の身体を奪うこともできる」
俺はそう考えた。だから、魂魔法を封じようとした。
だが、そのとき、もう一人の俺が現れた。
「世界中の人間を一つの魂にすればいい」
それが、始まりだった。男が俺を見る。
「思い出したか?」
「ああ」
「なら、分かるだろう」
男は両手を広げる。
「私は、お前の理想の完成形だ」
「違う」
「なぜ?」
「俺はそんなものを作ろうとはしていない」
「嘘だ」
男の身体から無数の魂が溢れ出す。
「お前は全員を救いたかった」
「だからこそ、全員を一つにする必要があった」
「違う」
「同じことだ」
「違う」
俺は男を見る。
「患者は一人ずつ治す」
男が笑う。
「非効率だ」
「医者に効率を求めるな」
「では、見せてもらおう」
男が手を上げた。
王都中の魂が震える。
「三十二万八千四百十二人」
「すべてを一人ずつ救えるのか?」
俺は魔力を最大まで解放した。王都全体が白い光に包まれる。
「やってみる」
男の顔から笑みが消えた。
「ならば――」
空が完全に裂ける。
「私は、お前が救えなかった最後の患者になる」
その瞬間、王都全域で、三十二万八千四百十二人分の魂が一斉に俺へ流れ込んできた。




