第95話 沈黙の原野
音が——消えていた。
風の音も、砂の鳴る音も、自分たちの足音さえも、まるで布で包まれたように遠い。ライトは思わず自分の手を叩いてみた。パン、という音は聞こえた。でも、すぐに吸い込まれるように消えた。
「変な感じ」セイラが囁いた。声は聞こえるが、普通より平坦に響く。
「音を吸っている」レインが言った。「空間に何かがある」
「《滅びの原》の魔力が影響しているんだろう」ナディアが周囲を見回した。「足元の砂も、少し違う」
確かに砂の色が変わっていた。くすんだ灰色がかった砂が、どこまでも続いている。空は青いのに、光が届きにくいような、薄暗い印象がある。
「固まって進む」フォルクが低く言った。「はぐれたら見つけられなくなる可能性がある」
全員が頷いた。五人が近い距離を保ちながら、ゆっくりと東へ進み始めた。
最初の十分は、何もなかった。
ただ静かな、灰色の砂漠が続くだけだった。見渡す限り、砂丘と、風化した岩だけ。生き物の気配はない。草一本、虫一匹もいない。
それが変わり始めたのは、三十分ほど歩いた頃だった。
最初は、ライトだけが感じた。
胸の奥に、何かが触れてくる感覚。言葉ではない。感情だ。重く、濁った——怒りとも、悲しみとも、恐怖とも取れる感情の塊が、ゆっくりと近づいてくる。
(来た)
ライトは歩調を落とさず、《スキル無限》を静かに展開した。感知を広げながら、同時に精神的な防護も準備する。
少し後ろで、セイラが息をのむ音がした。
「……ライト」
「わかってる。声が来てる」
「頭の中に、何か——」
「感情に流されるな。それは外から来ているものだ。自分のものじゃない」
セイラが深呼吸した。「うん……わかった」
ナディアが顔をしかめながら言った。「これが《声》か。確かに不快だ。気分が悪くなりそう」
「俺は平気だ」レインが淡々と言った。「怒りは慣れている」
フォルクが黙って周囲を見渡した。さすがに長年の経験があるだけあって、表情は変わっていない。だが、こめかみに少し力が入っているのを、ライトは見逃さなかった。
「このまま進める?」ライトが全員に聞いた。
「行ける」セイラが答えた。「まだ大丈夫」
全員が頷いた。進む。
だが、五分も歩かないうちに——状況が変わった。
砂丘の陰から、人影が現れた。
黒い外套。三人。《蒐集者》だ。
彼らはライトたちを見て、立ち止まった。ライトたちも立ち止まった。しばらく、両者がただ見つめ合った。
黒外套の一人が、低い声で言った。
「やはり来たか。金髪の少年」
「俺を知っているのか」
「ダラント遺跡の封印を解いたと聞いた。お前の力に、興味がある」
穏やかな口調だった。だが、その目は穏やかではなかった。値踏みするような、冷たい光がある。
「《滅びの原》に何をしに来た」ライトは問い返した。
「我々の目的は一つだ」黒外套が答えた。「この場所に封じられているものを——解放すること」
「なぜ」
「それは我々の信条だ」
信条。ライトはその言葉を頭の中で転がした。組織の都合でも、利益のためでもなく——信条。それがどんな信条なのかはわからないが、少なくとも単純な悪ではないかもしれない。
「あなたたちは——封じられているものが何か、知っているのか」ライトは続けた。
「知っている」黒外套が静かに答えた。「知った上で、解放しようとしている」
「何が封じられているんだ」
黒外套は少し沈黙してから、答えた。
「かつて世界を守った存在だ。千年前の大災害で——力を使い果たし、自ら封じられることを選んだ。だがその封印は、本来の目的を終えて久しい。今はただ苦しみながら存在しているだけだ」
ライトの胸に、何かが響いた。
ダラント遺跡の存在が語った言葉。《滅びの原》の老人が言った「終わりを求める声」。そして今、《蒐集者》が語る「苦しみながら存在しているだけ」という言葉。
全て——繋がっている。
「解放したとして、その存在はどうなる?」
「消える」黒外套は静かに言った。「千年間、自分の意志で存在し続けてきた。解放されれば——安らかに、終わる」
フォルクが後ろで低く唸った。セイラが息を詰めた。
「お前たちを敵と思っていない」黒外套が続けた。「だが——邪魔もしてほしくない。この場所の封印を解くことは、我々にとって使命だ」
ライトは黒外套の目を見た。嘘は感じなかった。だが、信じていいかどうかも、まだわからない。
「少し考えさせてくれ」ライトは言った。
黒外套が微かに驚いた顔をした。攻撃でも拒絶でもなく、考えると言った。それが予想外だったらしい。
「……わかった。待とう」
ライトは仲間たちと少し距離を取った。
「どう思う?」小声で聞いた。
「嘘はついていないように見えた」セイラが言った。「でも、信じていいかはわからない」
「俺も同意見だ」とナディア。「《蒐集者》が遺物を集めているのは事実だ。その目的が本当に封印解放のためなら、手段が荒っぽい部分はあるが——悪意があるとは言い切れない」
「目的が同じなら、協力できるかもしれない」レインが静かに言った。「だが、慎重に」
「フォルク」ライトが向いた。
老冒険者は腕を組んで黙っていた。やがて口を開いた。
「あの男の目——嘘じゃないと俺も思う。だが、俺たちが知らない事情もあるかもしれない。情報をもらいながら、主導権はこちらが持つべきだ」
「同意だ」ライトは頷いた。
黒外套のところに戻った。
「一つ条件がある」ライトは言った。「封印の核心に近づくのは、俺が行く。あなたたちは外で待機してほしい」
「なぜ?」
「封じられているものが苦しんでいるなら——力ずくで封印を壊しても、苦しみは消えない。俺には別のやり方がある」
黒外套がしばらくライトを見つめた。そして——静かに頷いた。
「信じよう。金髪の少年よ——頼む」
《蒐集者》の三人と、ライトたち五人は並んで歩き始めた。
奇妙な同行だった。互いを完全に信じているわけではない。でも、今この場所では——同じ方向を向いていた。
声が強くなっていった。
ライトの頭の中に、感情の波が押し寄せてくる。怒り、悲しみ、疲弊——そして奥底に、静かな叫びのようなもの。終わりを求める、長い長い叫び。
(もうすぐだ)
ライトは足を止めなかった。
声に押し流されることもなく、ただ前を向いて歩き続けた。
灰色の砂漠の奥に、光が見え始めた。
白く、静かな光の柱——《滅びの原》の中心が、そこにあった。
セイラが隣で息をのんだ。
「あれが……」
「ああ」ライトは静かに答えた。「光の柱だ」
白い光は、空に向かってまっすぐ伸びていた。周囲の灰色の砂漠の中で、その光だけが鮮明に見える。近づくにつれ、声がさらに強くなった。感情の波が肌を叩く。だが——ライトは揺らがなかった。
怒りでも、悲しみでも、恐怖でもない。
ただ——そこに、誰かがいる。
千年間、一人でいた誰かが。
(待っていてくれ。もうすぐ行く)
ライトは光の柱へと、一歩ずつ近づいていった。




