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第94話 禁域への道

 夜明け前に宿を出た。


 エスナルの街はまだ眠っていた。露店も閉まり、昼間の喧噪が嘘のような静けさの中、五人は待ち合わせ場所へと向かった。


 東門の外に、一人の男が立っていた。


 歳は四十前後。日焼けした肌に、砂漠慣れした装備。背が高く、どこか飄々とした雰囲気がある。フォルクを見ると、軽く手を上げた。


「フォルク。久しぶりだ」


「サイード。世話になる」


「世話というほどのものでもない」男——サイードが肩をすくめた。「《滅びの原》の入り口まで案内するだけだからな。中には入らんぞ」


「それで構わない」


 サイードがライトたちを見回した。品定めするような目つき。


「若い連中だな。砂漠は慣れてるか?」


「少しは」とライトが答えた。


「ならいい。ただし——東へ進むにつれ、砂の質が変わってくる。普通の砂漠じゃない。足を取られやすくなるから、俺の歩き方を真似ろ」


「わかりました」


「出発しよう。日が高くなる前に、できるだけ距離を稼ぐ」


 サイードが歩き始めた。一行がそれに続く。エスナルの城壁が背後に遠ざかっていった。

 最初の二時間は、普通の砂漠だった。


 砂丘が連なり、風が吹くたびに砂が舞い上がる。太陽が昇り始めると気温も上がってきた。サイードのペースはゆっくりとしているようで、しかし確実に距離を刻んでいく。体力の消耗を最小限に抑える、砂漠歩きの技術だ。


「サイード」ライトは並んで歩きながら聞いた。「《滅びの原》に近づいた経験は?」


「入り口まで何度か案内したことがある。中に入ったことはない——入る気もない」


「どのあたりから変わってくるんですか」


「境界線、みたいなものがある」サイードが前を向いたまま答えた。「目には見えないが、感じればわかる。空気が変わる。音が変わる。砂の色も少し違う」


「境界を越えると?」


「普通の人間なら、すぐに気分が悪くなる。俺は手前で止まるから知らんが——中に入った連中の話では、頭の中が直接揺さぶられるような感覚があるらしい」


 老人から聞いた「声」のことと一致する。


「あなたはなぜ気分が悪くならないんですか。境界の手前でも、影響を受けそうですが」


「慣れだろうな」サイードが少し笑った。「何度も行って、少しずつ慣れた。それだけだ」


 飄々とした答えだったが、それだけの経験を積んだ人間だということでもある。

 昼過ぎに休憩を取った。岩陰で水と食料を補給しながら、サイードが地図を広げた。


「今ここだ」彼が指で示した。「あと半日ほどで境界に着く。今夜は手前で野営して、明朝に入るのがいいだろう」


「それで行こう」とフォルクが言った。


 フォルクが補足する。「ただし、野営地点より先にも人の気配があった。《蒐集者》かもしれない」


「どのあたりで?」ライトが地図を覗き込んだ。


「ここと——ここだ」フォルクが二点を示した。ライトたちの予定ルートを挟むように、東寄りに二つの印がある。


「挟まれているな」ナディアが低く言った。


「気づかれているかもしれない」とレインも続けた。


 サイードが地図を畳んだ。「俺は案内人だ。戦いには首を突っ込まない。だが——別のルートで境界まで連れていくことはできる。時間は少しかかるが」


「頼む」ライトはすぐに答えた。


「了解した。では、今夜の野営地も変える」


 サイードが立ち上がり、方向を変えた。一行がついていく。迂回ルートは砂丘が多く、歩きにくかった。だが、《蒐集者》と鉢合わせするより遥かにいい。


 そして——今は、まだ戦うべき時ではない。

 日が沈む頃、迂回ルートの野営地に着いた。


 砂丘に囲まれた窪地で、風が防がれて過ごしやすい。サイードが慣れた手つきで野営の準備をしながら、「ここは何度も使っている場所だ。見つかりにくい」と言った。


 焚き火を小さく保ちながら、夕食をとった。会話は少なかった。皆、それぞれに考えていた。


「ライト」セイラが隣に座りながら小声で言った。「明日、私は中に入れると思う?」


「思う」ライトは正直に答えた。「声に当てられるかもしれないが——セイラなら乗り越えられる」


「根拠は?」


「今まで色々なことを乗り越えてきただろう」


 セイラが少し黙った。それから「そうだね」と静かに言った。


「でも——もし俺が「戻れ」と言ったら、戻ってくれ」


「それは——」


「頼む。仲間が傷つくことより、俺一人で動く方がまだいい」


 セイラが眉を寄せた。「一人で動くとか言わないでよ」


「わかってる。でも、状況次第では判断が必要になる」


「……わかった。でもライトも、無茶しないで」


「する気はない」


 二人の間に、砂漠の夜風が吹いた。遠くで、砂が鳴っている。


 明日、境界を越える。《滅びの原》の入り口へ。

 夜中、ライトは目が覚めた。


 誰かの見張り番でもなく、物音がしたわけでもない。ただ——何かが引っかかって、眠れなくなった。


 (声)


 《滅びの原》の声。今はまだ遠い。でも——かすかに、感じた気がした。怒りとも悲しみともとれる、あの圧迫感。


 ライトは《スキル無限》を静かに展開した。感知を広げ、方向を探る。


 東。


 確かに、何かがある。遠い。でも確かに存在している。


 そしてもう一つ——別の気配も感じた。人間の気配。複数。《蒐集者》だろうか。彼らもこちらと同じ方向を向いている。同じ目的地へ向かっている。


「……急いだ方がいい」


 ライトは小さく呟いた。誰にでもなく。


 もし《蒐集者》が先に《滅びの原》の中心に到達したら——何が起きるかわからない。あの声が示す存在を、力ずくで利用しようとしているなら。


 ライトは目を閉じた。考えても、今夜できることは限られている。体を休めて、明日に備えることだ。


 それでも——焦りに似た感覚が、胸の底に静かに燃えていた。


 砂漠の夜が、ゆっくりと明けていく。夜明けが来る。そして——《滅びの原》との決着が、近づいていた。

 夜明けとともに、サイードが全員を起こした。


「動くぞ。《蒐集者》らしき連中が夜のうちに移動した。先を越される前に、境界まで急ごう」


 サイードもまた、砂漠での経験から気配を感じ取っていたらしい。流石だ、とライトは思った。


 朝食も最低限に済ませ、一行は素早く出発した。砂漠の朝は冷えていたが、歩き始めるとすぐに体が温まってくる。


 一時間ほど歩いたとき、空気が変わった。


 ライトは最初に気づいた。次いでサイードが足を止め、後ろを振り返った。


「感じたか」


「ああ」


「ここから先が——境界だ」


 前を見ると、砂の色が少し違って見えた。普通の砂漠の明るい黄色から、くすんだ灰がかった色合いへ。そして——静かだ。虫の声も、風の音も、何もかもが遠い。


「俺はここまでだ」サイードが言った。「中には入らない。だが——必ず戻ってこい」


「ありがとう、サイード」フォルクが手を差し出した。サイードがそれを握り返した。


 五人は前を向いた。境界線が、目の前にある。


「行こう」ライトが言った。


 一歩、踏み出した。空気の質が、変わった。

 《滅びの原》に足を踏み入れた瞬間、全員が立ち止まった。


 音が——消えていた。

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