第92話 生還者の証言
夕方、ライトが案内されたのは、エスナルの南区画にある小さな酒場だった。
薄暗い店内に、煙草の煙と酒の匂いが混じっている。常連らしき客が数人、思い思いに飲んでいた。ライトは奥の席に目をやった。
一人の老人が座っていた。
歳は六十を超えているだろうか。白髪交じりの頭に、深く刻まれた皺。だが目だけは、妙に鋭かった。生きることに慣れた人間の目だ、とライトは思った。
「あんたがライトか」老人が先に口を開いた。
「そうです。話を聞かせてもらいたくて」
「聞いたぞ。《滅びの原》のことを調べているそうだな」老人は静かにグラスを置いた。「座れ」
ライトは向かいに腰を下ろした。今日は一人で来ていた。フォルクたちは外で待っている。相手が警戒するかもしれないと思い、まず一対一で話すことにしたのだ。
「三十年前に《滅びの原》から戻ったと聞きました」
「ああ」老人が頷いた。「生きて戻った。ただし——二度と行く気はない」
「何があったんですか」
老人はしばらく黙った。グラスを指でなぞり、遠い目をした。
「あそこは——声が聞こえる場所だ」
「声?」
「入ったとたん、頭の中に直接声が届く。言葉じゃない。感情に近いものだ。恐怖、怒り、悲しみ——そういった感情の塊が、ぶつかってくる」
ライトは黙って続きを待った。
「俺が入ったとき、仲間が三人いた。優秀な連中だった。だが——声に当てられて、まともに動けなくなった。一人は泣き崩れ、一人は怒り出して仲間に刃を向けた。もう一人は……逃げようとして、方向を見失ったまま戻ってこなかった」
「あなただけが戻れたのは?」
「わからん」老人が苦い顔をした。「俺だけが声を聞いても、なぜか動けた。あの感情の渦が、俺には届かなかったのかもしれない。それとも——届いていたが、気にしなかっただけなのか」
「《滅びの原》の中心には何があるか、見えましたか」
「遠くに、何かが光っていた」老人の目が細くなった。「柱のような形だった。光の柱が、空に向かって伸びていた。それだけだ。それ以上近づく前に、俺は仲間を引いて撤退した」
光の柱。ライトは記憶の中でその言葉を反芻した。封印——何か大きなものが封じられているとすれば、その核心部分かもしれない。
「もう一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「その声——怒りや悲しみの感情だと言いましたが、何かを求めていた、という感じはしましたか」
老人が初めて驚いた顔をした。じっとライトを見つめる。
「……なぜそれを聞く?」
「ダラント遺跡でも、似たようなものと向き合ったから」
しばらく、老人は無言だった。酒場の外で誰かが笑う声がする。遠い喧噪。
「求めていた、か」老人が低く呟いた。「……そうかもしれん。俺が感じたのは、確かに怒りだ。でも今になって思えば——怒りの奥に、何か叫んでいるものがあった気がする。うまく言えんが」
「助けを求めていた?」
「あるいは——終わりを求めていたのかもな」
その言葉は、ライトの胸に重く落ちた。
ダラント遺跡の存在のことが頭をよぎった。幾千年の孤独。終わりを求めていた。それと同じものが——《滅びの原》にも、いるのかもしれない。
「ありがとうございます」ライトは立ち上がり、頭を下げた。「大切な話でした」
「……お前、まさか行くつもりじゃないだろうな」
老人が静かな声で言った。ライトは答える代わりに、少しだけ笑った。
「気をつけます」
老人が「馬鹿め」と呟くのが聞こえた。でも、止めようとはしなかった。
外に出ると、夜のエスナルが待っていた。
「どうだった?」セイラが真っ先に聞いてきた。
「色々わかった」ライトは皆に向けて話した。「《滅びの原》の中には声がある。感情の渦みたいなもので、入った人間の精神を揺さぶる。でも——その奥に、光の柱がある。おそらく、何かの封印の核心部分だ」
「感情の渦……」ナディアが眉をひそめた。「それは精神攻撃ってことよね。普通の冒険者には対処が難しい」
「ライトはどうだ?」フォルクが問う。
「ダラント遺跡でやったことと、根本的には同じかもしれない。向き合って、話すことができれば——」
「同じじゃないぞ」レインが静かに言った。「ダラントは一対一だった。だが《滅びの原》の声は複数らしい。規模が違う」
ライトは頷いた。レインの言う通りだ。過信はできない。
「今すぐ行くつもりはない」ライトは言った。「もう少し情報を集めて、準備を整えてから判断する」
「賢明だ」とフォルクが言った。
夜風がエスナルの街を通り抜けた。遠くで音楽が鳴っている。賑やかな街の音。
ライトは空を見上げた。砂漠の星は、ここからでも多く見えた。
その夜、ライトはなかなか眠れなかった。
宿の寝台に横になり、天井を見つめたまま、考えを整理しようとしていた。
《滅びの原》。感情の渦。光の柱。三百年前の使い手。《無限の器》。
点と点が少しずつ繋がり始めている気がした。でも、全体像はまだ霧の中だ。
(焦るな)
自分に言い聞かせた。急いで飛び込んでも、仲間を危険に巻き込むだけだ。準備をして、理解を深めて、それから動く。それがライトの流儀だった——いつからか、そうなっていた。
以前の自分は違った。無能と言われ、追放され、何も持っていなかったとき。ただ必死に生き延びることしか考えていなかった。
でも今は違う。守りたい人間がいる。一緒に歩く仲間がいる。
だからこそ、慎重にならなければいけない。
「……眠れないの?」
不意に声がした。隣の部屋との壁越しに、セイラの声が聞こえた。
「なんで起きてるんだ」
「ライトが寝返りを打つ音が聞こえたから」
薄い壁だ、とライトは思った。
「考えすぎ」とセイラが言った。「寝た方がいいよ。どうせ明日も動くんでしょ」
「そうだな」
「ぐるぐる考えたって、夜中には答えは出ないよ」
ライトは少し笑った。
「セイラ」
「なに?」
「俺が《滅びの原》に行くことになったとき、止めるか?」
少し間があった。
「……止めない」セイラが答えた。「でも、一人では行かせない」
「危ないかもしれない」
「わかってる。それでも」
壁の向こうで、セイラが深呼吸するのが聞こえた。
「ライトが行くなら、私も行く。それだけ」
ライトは何も言えなかった。言葉が見つからなかったのではなく——言葉にする必要がなかった。
「ありがとう」
短く、でも確かに伝えた。
「どういたしまして。じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
それきり、声は聞こえなくなった。
ライトは目を閉じた。さっきまで頭を駆け巡っていた考えが、少し落ち着いた気がした。全部を一人で解決しなくていい。隣に、信頼できる仲間がいる。
それだけで、不思議と眠れる気がした。
エスナルの夜が、静かに深まっていった。明日もまた、動き続ける。《滅びの原》への道がどこへ続くのか——まだ誰も知らない。だが今夜だけは、ライトはただ眠ることにした。
翌朝、ライトは皆より早く起きた。
窓から見えるエスナルの街は、まだ目覚め始めたばかりだった。露店の準備をする商人、井戸へ向かう住人、早起きの子ども。砂漠の都市の、普通の朝。
(次は——何を調べる)
ライトは頭を整理した。《滅びの原》への道。案内人の名前はフォルクが手に入れた。黒い外套の集団——遺物を集めているという連中も気になる。もしあの場所に何らかの封印があるなら、それを狙っている者がいてもおかしくない。
やるべきことは、まだ多い。
でも——一つずつだ。
ライトは窓を閉めて、着替えを始めた。今日も動く。昨夜より少し、前に進むために。




