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第91話 《無限の器》の記録

 翌朝、ヴェルンの家を再び訪れると、老人はすでに準備を整えていた。


 昨日は積み上げられた書物で溢れていた部屋が、今日は少し片付いていた。大きなテーブルの上に、数冊の古い書物と羊皮紙が広げられている。


「来たか」ヴェルンは顔も上げずに言った。「全員か?」


「全員です」


「狭い部屋に五人は多いな」と言いながら、椅子を引っ張り出してきた。「まあ、座れ」


 押し合いながら全員が席に着く。ヴェルンが広げた羊皮紙の一枚を指でトントンと叩いた。


「昨日言った三百年前の話の続きだ。まず——《無限の器》とは何か、説明する」


 全員が聞き耳を立てた。


「通常、人間が持つスキルは一つか、多くても数個だ。それは魂の器の大きさによって決まると言われている。スキルを詰め込める量には、誰にでも上限がある」


「それは知ってる」とセイラが頷いた。


「だが——ごく稀に、その器に上限がない人間が生まれることがある。記録では数百年に一人、あるいは千年に一人とも言われている。それが《無限の器》の使い手だ」

 ライトは自分の胸に手を当てた。


「三百年前の使い手は、どんな人物だったんですか」


「記録によれば——冒険者だ。特定のギルドに属さず、各地を旅しながら様々な存在と関わっていたらしい。封じられた精霊、呪われた土地、人に仇なす怪異——そういったものを、力ではなく対話と理解で解決していったと書かれている」


「それと昨日の遺跡が……」


「そうだ」ヴェルンが頷いた。「お前がやったことと、ほぼ同じだ。偶然とは思えん」


 セイラが手を挙げた。「でも、そのスキルはどこから来るんですか? 生まれつき持っていたものなんですか?」


「それが——わからんのだ」ヴェルンが眉をひそめた。「記録には《無限の器》の使い手がいたとあるが、どうしてそのスキルが生まれたかは書かれていない。ただ一つ、気になることがある」


 老人が別の羊皮紙を広げた。今度は地図のようなものだった。


「三百年前の使い手が最後に向かったとされる場所だ。砂漠のさらに東——今は立ち入り禁止になっている禁域、《滅びの原》だ」


 その名を聞いて、ナディアが息をのんだ。


「……《滅びの原》?」

「知っているか?」とヴェルンがナディアを見た。


「聞いたことはある」ナディアは慎重な口調で答えた。「砂漠の東の果て……何百年も前に何かが起きて、今は魔力が狂っている場所、って。近づいた者は戻らないって」


「そうだ。正確には——大量の魔力が乱流した結果、空間そのものが歪んでいる。普通の方法では入れないし、入れたとしても方向感覚を失って出られなくなる」


「その場所に、三百年前の使い手が?」


「記録ではそうなっている。そしてそれ以後、その使い手の記録は途絶えている」


 重い沈黙が部屋に落ちた。


 つまり——戻ってこなかったということだ。ライトは静かにその事実を受け止めた。


「俺に同じことをしろ、と言いたいわけじゃないですよね」


「当たり前だ」ヴェルンがきっぱりと言った。「わしは情報を提供しているだけだ。お前がどう動くかは、お前が決めることだ」


「でも……先生は何か考えてる。そうじゃないですか」


 ライトが真っ直ぐに問うと、老人は少し黙ってから口を開いた。


「《滅びの原》が歪んだのは、三百年前のちょうどその頃だ。それ以前は普通の砂漠だったという記録がある。つまり——」

「《無限の器》の使い手が関係している可能性がある」とライトが続きを言った。


「そうだ」ヴェルンが静かに頷いた。「何が起きたのかはわからん。だが、あの場所は——何かを封じ込めている可能性がある。非常に大きな、何かを」


 またしても沈黙。


 フォルクが腕を組んだ。「それで俺を呼んだんですか、先生。俺はただ、ライトのことを聞いてもらいたかっただけで……」


「そうだ、お前に調べてほしいわけじゃない」ヴェルンは手を振った。「ただ、この少年が《無限の器》の使い手であるとすれば——遅かれ早かれ、《滅びの原》と無関係ではいられなくなると思ってな」


 ライトは地図に視線を落とした。砂漠の東の果て、小さく印がつけられたその場所。


 今すぐ行くつもりはない。だが、知っておかなければならないことが、また一つ増えた。


「ありがとうございます、ヴェルン先生」ライトは頭を下げた。「教えてもらえてよかった」


「感謝するなら、また面白い話を持ってこい」老人は笑った。「わしの研究のためになる」


 五人が外に出ると、エスナルの朝の空気が肌に当たった。

「ライト」セイラが隣に来た。「大丈夫?」


「ああ」


「色々聞かされて、重くなってない?」


 ライトは少し考えた。重い、と言えば重い。《滅びの原》、三百年前の使い手、自分の力の正体——知れば知るほど、背負うものが増えていく気がする。


「でも」とライトは言った。「知らないままでいるよりは、いい」


「……そうかな」


「そうだ。知ってれば、準備できる。考えられる。知らないままだと、ただ流されるだけになる」


 セイラがしばらく黙った。それから小さく笑った。


「ライトって、たまにすごくしっかりしたこと言うよね」


「たまに、か」


「普段はぼんやりしてるから」


「否定できない」


 二人の会話に、レインが「否定しろ」と小声で突っ込んだ。ナディアが呆れ、フォルクが苦い顔をした。


 いつもと変わらない、騒がしいやりとり。


 でも——その騒がしさが、今のライトには心地よかった。一人で抱え込まなくていい。重い話を聞いても、帰ってくる場所がある。それがどれだけ大切なことか、ライトは今さらながら実感していた。


「次はどうする?」とフォルクが聞いた。


「少しエスナルで情報を集めたい。《滅びの原》のことを知っている人間が他にもいるかもしれない」


「なるほど。では手分けして動くか」


「ああ——でも昼飯は一緒に食べよう」


 それだけ言って、ライトは歩き出した。朝のエスナルが、活気と共に目を覚ましていた。

 手分けして動いた午前中の成果は、思ったより大きかった。


 セイラとレインは市場で商人たちから話を聞き、《滅びの原》近辺で最近不審な動きをしている集団がいるという情報を掴んだ。黒い外套の者たちで、遺跡の遺物を集めているらしいとのことだった。


 ナディアは冒険者ギルドの支部で、《滅びの原》に関する依頼が過去に数件出ていたが、いずれも依頼者が撤退か行方不明になっていることを調べ上げた。


 フォルクはかつての伝手で、《滅びの原》の入り口付近まで安全に近づける案内人の名前を手に入れた。


「一日でここまで集まるとは」ライトは昼食を食べながら言った。


「お前も何か掴んだのか?」とフォルクが聞く。


「ひとつ」ライトは答えた。「三十年前に《滅びの原》から生きて戻った人間がいる。今もエスナルに住んでいるらしい」


 全員が顔を上げた。


「会えるのか?」


「今日の夕方、会う約束をとりつけた」


 静寂。そしてフォルクが低く「やるな」と言った。


 ライトは素直に「ありがとう」と答えて、スープの残りを飲み干した。


 まだわからないことだらけだ。でも、少しずつ——確かに近づいている。

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