第84話 深淵の口
夜明け前、俺はセイラと小型の船に乗り込んだ。
仲間たちが岸壁で見送った。レオが腕を組んで立っている。リナが両手を合わせて祈るような顔をしている。シルヴィアが静かに頷いた。ガルダンが無言で俺を見た。ヴィクトルが右手を胸に当てた。ロードが「信じている」と言った。
「行ってくる」と俺は言った。
船が沖へ出た。
目的地はヴァルナの南、沖合二十キロの海域だ。セイラが海流を読みながら舵を取る。夜明けの空が薄紫に染まり、波が静かに光を反射していた。
「緊張しているか?」とセイラが聞いた。
「少し」と俺は答えた。
「正直だな」と彼女が笑った。「緊張しない方がおかしい。あの深さは、私でも怖い」
「セイラは何度か行ったことがあるのか?」
「三百メートルまでなら。それ以上は——誰も戻ってこなかった」と彼女は静かに言った。「だから、無理はするな。封印に触れられなくても、命あっての話だ」
「わかっている」
一時間ほど進んだところで、船が止まった。
「ここだ」とセイラが言った。「真下、約五百メートルの地点に深淵の口がある。《深層感知》で確認できるか?」
俺は《深層感知》を真下に向けた。
感じた。強い。陸上や航海中とは比べ物にならないほど強い魔力の脈動が、真下から伝わってくる。そして——何かが、そこにある。眠っているような、しかし確かに存在感のある何かが。
「ある」と俺は言った。「強い。フォルスハイムの核より、ずっと大きい」
「では行こう」とセイラが言った。「まず私が三百メートルまで案内する。そこから先はあなた一人だ」
俺は《属性融合》を全身に纏った。水圧に対する防護膜だ。フォルスハイムの核に触れた時と同じ感覚——魔力を最大限に展開し、外圧に対して内から押し返す。
「準備ができた」
二人で海に入った。セイラが海魔法で水を制御し、俺たちを引っ張るように下へ導く。光が届かなくなると、セイラの文身が青く光って周囲を照らした。
百メートル、二百メートル。水圧が増すが、魔力防護が保っている。三百メートルに達した時、セイラが俺の腕を掴んだ。
「ここまでだ」と彼女が言った。声が水中でも不思議と聞こえた。海魔法の効果か。「必ず戻ってこい」
「ああ」と俺は答えた。
セイラが上に向かって泳いでいく。俺は一人、深い闇の中に残された。
下を向いた。《深層感知》の光が、暗闇の中で道を示している。
俺は潜り始めた。
四百メートル。防護膜が軋む感覚がある。強化する。五百メートル。
そこに——それがあった。
直径二十メートルほどの裂け目が、海底に口を開けていた。深淵の口だ。周囲に古代の文字が刻まれた石が並んでいる。フォルスハイムで見た文字と同じ系統だ。五百年前の魔導師たちがここに来て、封印を施した。
しかし石は半分以上が崩れ、文字も消えかけていた。封印の力が弱まっているのが、魔力的にも視覚的にも分かる。
裂け目の奥から、暗い魔力が滲み出ている。
俺は深呼吸した——水中なので実際にはできないが、気持ちを整えた。
《スキル無限》のすべてを解放した。
手を裂け目の縁に当て、魔力を流し込む。フォルスハイムの核の時と同じ要領だ。しかし規模が違う。核は人の背丈ほどの水晶塔だったが、ここは深海の裂け目そのもの。どれだけの魔力が必要か、見当もつかない。
流し込む。流し込み続ける。
裂け目の石が光り始めた。消えかけていた文字が、一つ一つ輝きを取り戻していく。封印が、再起動されていく。
しかしその時——裂け目の奥から、何かが押し返してきた。
強い。圧倒的に強い。俺の魔力を飲み込もうとするような、巨大な力だ。
これが——古の災禍の力か。
俺は退かなかった。押し返す。押し返し続ける。フォルスハイムの核の時も、そうだった。
何分経ったかわからない。
魔力が尽きそうになる感覚が来た。しかし止めれば封印が戻る。止められない。
その時、頭の中に声が聞こえた。
声ではない——感覚だ。仲間たちの顔が浮かんだ。レオ、ガルダン、シルヴィア、リナ。岸壁で待っている彼らの顔。カーラとアルフレッドの顔。ヴィクトルとロードの顔。
一人じゃない。
俺は奥歯を噛みしめ、もう一度魔力を解放した。最後の一絞り——いや、まだある。仲間がいる限り、まだある。
光が爆発するように広がった。
封印の文字が一斉に輝き、裂け目全体が金色に包まれた。押し返してくる力が、静まっていく。深淵の奥の気配が、遠くなっていく。
封印が——完成した。
俺は手を離した。全身の力が抜けた。魔力はほぼゼロだ。意識が遠くなりかける。
まずい。浮かばなければ。
腕を動かした。重い。しかし動く。上へ。上へ。
どれくらい泳いだかわからない。気づいた時、誰かに腕を掴まれた。
セイラだった。三百メートルのところで待っていたのだ。
「捕まれ!」と彼女が言った。
セイラが海魔法で俺を引き上げた。光が差してくる。百メートル。五十メートル。十メートル。
海面を突き破った瞬間、空気が喉に流れ込んだ。
「息をしろ!」とセイラが叫んだ。
俺は大きく息を吸った。空の青が目に飛び込んできた。船の縁が見える。
「掴まれ」とセイラが船に引っ張り上げてくれた。
船底に倒れ込んだ。空を見上げる。青い、高い空だ。
生きている。
「封印は?」とセイラが聞いた。
「した」と俺は言った。声がかすれた。「完成した」
セイラが大きく息をついた。「そうか。よかった」
しばらく動けなかった。空を見上げたまま、波に揺られた。体が鉛のように重い。しかし心は——静かに、満ちていた。
終わった。深淵の口は再び封じられた。
帰れる。仲間のところへ。
船が岸へ向かって動き始めた。
岸壁に着いた時、仲間たちが全員走ってきた。
「ライト!」とリナが叫んだ。
レオが俺の腕を掴んで引き上げた。「顔色が死人みたいだぞ」
「それくらいやった」と俺は言った。
「封印できたか?」とシルヴィアが鋭く聞いた。
「できた」と俺は答えた。
シルヴィアが目を閉じ、深く息をついた。「そう……本当に」
「信じていなかったのか」
「信じていた。でも——心配もしていた」と彼女は言った。珍しく、声が少し震えていた。
ガルダンが無言で俺の肩に手を置いた。それだけで十分だった。
ヴィクトルが俺の前に立った。「よくやった」と彼は静かに言った。「大陸全体を代表して礼を言う」
「大げさだ」と俺は言った。
「大げさじゃない」とヴィクトルが言った。「あなたがやったことの意味は、時間が経てばわかる」
ロードが俺に手を差し伸べた。「ヴァルナを代表して——ありがとう」
俺はその手を握った。
セイラが一歩前に出た。「私も礼を言う。あの深さまで行って戻ってきた人間を、私は初めて見た」
「案内してくれたおかげだ」と俺は言った。
波の音が響いた。ヴァルナの港に、朝の光が降り注いでいる。
俺はゆっくりと立ち上がった。足はまだ震えているが、立てる。
「帰ろう」と俺は言った。
「エルダリアへ?」とレオが聞いた。
「ああ。王への報告と——それから、ヴィクトル、カルドへも行く。約束したからな」
ヴィクトルが目を見開き、それから笑った。「覚えていてくれたか」
「忘れない」
仲間たちの笑い声が港に広がった。
古の災禍の封印は完成した。しかしヴィクトルの言う通り、これは永続するものではない。根本的な解決は、まだ先にある。
それでも今日は、一つ進んだ。
旅は続く。空は青く、海は広く、仲間は隣にいる。それで十分だ。
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