第82話 ヴァルナへの航海
港町を出発したのは、夜明けだった。
ロードの船——ヴァルナ連邦の帆船《白波号》は、朝靄の中でゆっくりと岸壁を離れた。港の見送りの人々が手を振っている。カーラとアルフレッドも来ていた。
「必ず戻ってくるんですよ」とカーラが岸壁から叫んだ。
「当たり前だ」とレオが手を振り返した。
船が沖へ出るにつれ、港の輪郭が小さくなっていった。やがて見えなくなった。前方には、青い海が広がっている。
「広いな」とレオが感慨深そうに言った。
「当たり前だ、海だから」とシルヴィアが言った。
「わかってるけど、実感として広いと思っただけだ」
リナが船縁から海を覗き込んだ。「底が見えない……」
「外洋はそういうものだ」とロードが後ろから言った。日に焼けた顔に、久しぶりの海への安堵が浮かんでいる。「怖いか?」
「少し」とリナが正直に答えた。
「慣れる」とロードが笑った。
ガルダンは船の中央部に腰を下ろし、じっと動かなかった。顔色がわずかに悪い。
「大丈夫か?」と俺は聞いた。
「問題ない」とガルダンが目を閉じたまま言った。
「顔色が悪い」
「問題ない」と彼は繰り返した。
レオが笑いをこらえながら「用意してきた酔い止め、飲んだか?」と聞いた。
「飲んだ」
「効いてないのか」
「問題ない」
三度目の「問題ない」は明らかに問題がありそうだったが、誰も突っ込まなかった。
ヴィクトルは船旅に慣れているらしく、甲板を歩き回りながらロードの乗組員たちと話していた。言葉は通じないが、身振り手振りと簡単な共通語で意思疎通しているようだ。
「器用だな、あの人は」とレオが言った。
「王族は外交が得意なのよ」とシルヴィアが言った。「幼い頃から他国の言葉や文化を学ぶらしいわ」
「俺たちとは育ちが違う」
「育ちが違っても、目指すものが同じなら仲間になれる」と俺は言った。
一日目は穏やかな航海だった。風が適度にあり、船は順調に進んだ。夕方には水平線が赤く染まり、海と空の境界が曖昧になった。
「きれいだ」とリナが呟いた。
「王都では見られない景色だな」とレオが言った。
「海はいいぞ」とロードが言った。「ずっと見ていられる」
夕食は甲板で取った。ヴァルナ式の料理——干した魚と豆を煮込んだもので、見た目は地味だが深い味がした。
「美味しい」とリナが目を輝かせた。
「我が国の定番料理だ」とロードが言った。「航海中は毎日これになるが、飽きない」
ガルダンは夕食を半分残した。それでも「問題ない」と言い張った。
二日目、波が少し高くなった。
船が揺れるたびに、俺は甲板に立って《深層感知》を海底に向けた。ここでも微かな脈動は感じられる。陸上より少し強い。海底に近い分、感知しやすいのかもしれない。
「何か感じるか?」とヴィクトルが隣に来て聞いた。
「陸上より少し強くなった」と俺は答えた。「まだ弱いが、確かにある」
「どの方向から来ている?」
「南西だ。ヴァルナの方角から」
ヴィクトルが目を細めた。「つまり、我々は震源地に向かっているということか」
「そうなる」と俺は言った。
「怖くないか?」
「怖い」と俺は正直に答えた。「でも、行かなければわからない」
ヴィクトルが小さく笑った。「あなたはいつも正直だな」
「嘘をつく理由がない」
「そういう人間は、信頼できる」とヴィクトルが言った。「カルドを代表して言う。あなたの判断を信じる」
波が船を揺らした。しかし足元は安定していた。
南西の空に星が出始めた。ロードが「ヴァルナまであと十二日」と言った。
旅はまだ続く。海の上を、星を頼りに。
五日目、嵐が来た。
朝から空が暗くなり、ロードが乗組員たちに指示を出し始めた。俺たちは船内に入るよう言われた。
「この時期の嵐は長くて半日だ」とロードが言った。「心配するな」
しかし嵐は予想以上に強かった。船が大きく揺れ、波が甲板を叩いた。リナが手すりを掴んで青ざめていた。ガルダンは「問題ない」も言わなくなった。ただ目を閉じて、木の柱を両手で掴んでいた。
シルヴィアが古文書を抱えながら、揺れる船内でも読み続けていた。
「今は読む状況じゃないだろ」とレオが言った。
「揺れていても目は動く」とシルヴィアが答えた。
「尊敬する」とレオが言った。
俺は甲板近くの窓から外を見た。波が山のように盛り上がり、船を飲み込もうとしている。しかしロードの乗組員たちは落ち着いていた。長年この海を渡ってきた者たちの動きは、無駄がなく、迷いがない。
「すごいな」と俺は呟いた。
「あれが海の魔法だ」とヴィクトルが隣に来て言った。「見ていろ」
甲板では、乗組員の一人が両手を広げて立っていた。風の中で、その人物の周囲だけ空気が違う色に見えた。《深層感知》で見ると、海流の魔力が手の平に集まり、船の周囲に薄い膜を形成している。
「波を和らげている」と俺は気づいた。「海の魔力を使って、衝撃を分散させているんだ」
「ヴァルナの航海士は全員、基礎的な海魔法を使える」とヴィクトルが言った。「これがあるから、嵐の海も越えられる」
「《属性融合》と似た原理だが、媒体が海そのものか」とシルヴィアが揺れる船内から声を上げた。「陸の魔法と海の魔法、根は同じかもしれない」
嵐は七時間続いた後、嘘のように静まった。
夜の海に星が戻ってきた。乗組員たちが汗を拭いながら笑い合っている。ロードが俺に近づいた。
「我々の船で、死者を出したことはない」と彼は言った。「このまま必ずヴァルナへ届ける」
「信頼している」と俺は答えた。
ガルダンが恐る恐る立ち上がり、甲板に出てきた。新鮮な空気を大きく吸い込み、星空を見上げた。
「……嵐は終わったか」
「終わった」とレオが言った。
「問題なかった」とガルダンが言った。
全員が笑った。嵐の後の静けさに、笑い声が吸い込まれていった。
ヴァルナまであと七日。海の旅は続く。
七日目の朝、シルヴィアが俺を呼んだ。
「ライト、これを見て」と彼女は古文書を開いた。「嵐の中で読み続けていたおかげで、重要な記述を見つけた」
「何だ」
「古の災禍についての詳細だ」とシルヴィアは言った。「これまでの記述では『海の底から目覚める』とだけあった。でもここに——具体的な場所が書かれている」
「どこだ?」
「ヴァルナの南、大陸棚の端にある深海の裂け目」とシルヴィアが言った。「そこが震源地だと記されている。古文書では『深淵の口』と呼ばれている」
「深淵の口」と俺は繰り返した。
「そして——」とシルヴィアが続けた。「その場所に、かつて古代の魔導師が封印を施したという記述がある。フォルスハイムの核と同じように。誰かが意図的に、そこに何かを封じた」
「封印が解けかけているということか」
「ええ」とシルヴィアが頷いた。「五百年前の封印が、限界を迎えようとしている。だから活動が活発化している」
ロードが会話を聞いていた。「その記述は我々の古文書にも対応する内容がある。ヴァルナの大図書館に行けば、封印の詳細がわかるはずだ」
「封印を強化できるかもしれない」と俺は言った。
「あるいは——」とヴィクトルが静かに言った。「完全に解除して、別の方法で対処するか」
「どういう意味だ?」と俺は聞いた。
「封印は時間稼ぎに過ぎない」とヴィクトルが言った。「五百年前の誰かがそれを選んだ。しかしまた五百年後には同じことが起きる。根本的な解決策が、どこかにあるはずだ」
俺は海を見た。青く、深く、果てしなく広がる海。その底に、何かが眠っている。
「大図書館に答えがあるといい」と俺は言った。
「きっとある」とシルヴィアが言った。「千年分の記録が眠っているのだから」
水平線の向こうに、陸地の影が見え始めた。
「ヴァルナだ」とロードが言った。「着いた」
全員が船縁に集まった。緑の丘が海から盛り上がり、その麓に白い建物が連なっている。港の灯台が光を放っていた。
「やっと陸だ」とガルダンが心底ほっとした声で言った。
「ヴァルナへようこそ」とロードが笑った。
答えが、そこにある。俺たちは船を進めた。
毎日更新中!嵐の航海を越えてヴァルナへ!ガルダンの「問題ない」が炸裂。次話もお楽しみに!




