3話:引っ越しの準備 前編
「うーん……」
最初は段ボール二つ分くらいで収まるだろうと予想していた荷物が、ここに来てどんどん増えてきている。困った。
染め直したことで赤くなった髪を縛り直したら、仕方がないのでもう一つだけ、段ボールを用意しようと立ち上がることにする。
「どうかしましたか?」
別な部屋で作業をしていた安達さんが振り返って、どうかしたのかと覗き込んできた。
「わかめなどの乾物と各種調味料が入らなくなったので、段ボールを追加します」
和食派のわたしには、しょうゆと味噌が大事だ。
さらにお酢と料理酒とみりんとー……と加えていったら、それだけで結構な量になってしまったのだ。そして、とても重い。
「フライパンと鍋は一つずつでいいとしても、お皿はこっちとあっちで、用意したほうが良いよね」
一人暮らしのわたしの部屋には、ご飯茶碗は一つしかない。そして洗濯物を干すための、ハンガーや洗濯ばさみも最低限しかない。
「……」
こういうちょっとしたものを買い足すことになって、地味に通帳の残高が減っていくところもなかなかダメージが大きい。
パスポートを取ってまで、海外に行かなくて良かったかも……。
取得方法を調べたら色々と面倒なことがわかって、行く気が失せたんだよね。
「取り方がわからないって、中学や高校の修学旅行は国内だったんですか?」
「そうです」
私立なら、中学から海外に行ったりするかもしれないけれど。
昭和生まれの普通の公立では、高校だって国内ですよ。
「わたしが卒業をしてから、海外へという意見が出たらしいですけどね。引率する先生方の間で意見が分かれてしまって、結局、無難な国内のままみたいです」
卒業旅行で海外へ行くという人もいたけれど、すぐに地元を離れたわたしには、そういう声も掛からなかった。
そもそも在学中にバイトをしていなかったことで、そんな金銭的余裕もないから誘われなくて良かったんだけどさ。
「……」
いや、友達はいるからね?少ないだけで……。って、どこに発信しているんだ、わたし。
文具の備品などを詰めていた安達さんが、蓋を閉めて運んでくる。
よいしょと床に下ろしたら、顔を上げついでに追加で尋ねてきた。
「そういえば、地元はかなり離れていますよね?なんでここに引っ越したんですか?」
親戚ともあまり交流がない、兄弟がいるわけでもない。
誰も知り合いがいない街に何をしに来たのだと問われても、当たり前の疑問か。
「特に意味はないんです。交通の便が悪い実家にいたので、駅の近くで色々と動きやすい街に行きたいなあと思いまして」
実家は山の近くだったから、次は海の近くが良いなあという条件に合う街がここだっただけだ。
だからって、海にはまだ行ったことがないんだけれども。
「それで実家から二時間以上も離れたこの街に?一人で?はあ……」
縁もゆかりもなんにもないところが自由でいいと言うわたしに、安達さんはよくわからないらしい。
微妙な顔をして首まで傾げて、知り合いが一人くらいいない場所でもいいのかと尋ねてきた。
「一人が好きでしたし、仲が良かった友人も大学進学で県外に行ってしまったので気にしていませんでした」
たまにしか連絡はしないけれど、いまはスマホがあるしね。
今度行くところがスマホの通じないところでも、不便ではない。
「なんというか、達観していますね」
「そうですか?」
魔王を上司に迎える安達さんのほうが、色々とおかしいと思うよ。
「私が掛けられた苦労を、こちらで返してもらっているだけですよ」
どういう経緯で魔王から助けを求められるんだとか、ちょっと気になるところもあるけれど。
安達さんに関しては深く考えないことにしようということで、今日も脇に置いておく。よし。
月曜に正社員の手続きをして、その足でハローワークに行きつつ買い物も済み。火曜は異世界へ行き来ができる扉の許可証について安達さんに教えてもらったら、就業時間の話し合いをしていくことにする。
「基本、わたしも九時十七時ですけれど、安達さんだけが金曜は十時出勤の十八時退社って、良いんですか?」
わたしの場合は金曜でも、九時に仕事を始めることで終わりは十七時だ。
それから帰り支度をしたら、月に二回だけ、金曜から月曜日の朝まで、こっちの世界に戻ってくることになっている。
十七時で終わるわたしから業務日誌を預かってチェックするという仕事が、上司となった安達さんには課せられている。
仕方がないと思うけれど、だからって十八時に帰るなんて申し訳ない。
「沢村さんは会社に業務日誌を届けて、私が返すまでを勤務時間として認められています。延長した分は残業代です。私もそれでいいと言ったんですが、経費削減のために十時出勤の十八時退社ということになっただけですよ」
「はあ……」
少し残念そうに肩をすくめる安達さんが、どちらにしても八時間勤務だから問題ないと言っていく。
しかしだね。いま、経費削減とか言わなかった?
昼食代を経費で落とそうとしたり、それ以外でも決して自分の財布から出さずに「早く帰りたい」とまで言っていた人が、経費削減とな!?
思わずじっと見上げてしまったら、何とも言えない顔を返されてしまった。
「私を何だと思っているんですか?」
「そういう人だと思っています」
「会社の規則には従いますよ」
経費で落ちないと言われた途端、社長の財布からお金を奪ってくる人が真面目なことを言うんじゃない。
大体のところがまとまったら、ようやくお茶の時間だ。
冷たいお茶が合う季節になってきたなあと思っていたら、今後のスケジュールを確認しようと言って、安達さんが手帳を取り出した。
「会社としても、こちらと行き来をする初めての住み込み体制です。沢村さんも、平日のほとんどを異世界で過ごすことになりますからね。体調面や情勢などのやり取りから、金曜の夜に戻ってきて月曜日の朝に向こうへ行く、という流れも一緒に確認しましょう」
「わかりました」
向こうとの行き来はお金が掛かる。これは行き来を希望する側の、わたしの負担となるのだ。
異世界との行き来の回数が少ないほど、給料にダメージがない。
正規雇用になってからは、安達さんは通常業務に戻るので一緒じゃない。つまり完全にわたし一人。弟子がサポートをしてくれても、試用期間より長い時間を店で過ごすことになる。
お互いに初めてのことなので、今月限定で毎週、戻ることになっても、二週間に一回と同じ金額にしてもらえたのだ。
それなら粉ものとか調味料とか、最初からそんなに持ち込まなくてもいいのではと思ったんだけれど……。
この引っ越しを逃すと、わたし一人で運ばないといけなくなるのだ。人手があるうちに、重いものは運んでおきたい。
っていうか引っ越し期間中に済ませておかないと、安達さんがまた出張届を勝手に出すかもしれないもんね。
そうなったら、正社員となったわたしも一緒に怒られるだろう。最悪だ。
魔王の社長には怒られたくないと決意したわたしに、新しく買い直した調味料が多い理由に納得したらしい安達さんが頷いていく。
「しかし料理酒が一升瓶の日本酒なのは理解できますが、お酢までとは思いませんでした」
「一升瓶タイプのお酢を昔から使っていたので、他だと味付けが変わるんですよ」
何よりも、どこに行っても食事の質は落としたくないわたしの、譲れないことの一つでもある。
重いと不平を言われようと、これだけは持って行くと言い張るわたしに、何度も深く頷く安達さん。……やけに実感がこもっているなあ。
「そういう人だということは、よく、知っています。ではカレーを運んだ台車ではなく、もう少ししっかりしたものを用意しましょう」
「ありがとうございます。助かります」
今回は割れ物も多いから、底板がついているだけの軽い台車じゃ困るもんね。
しっかりと段ボールのサイズと重さを確かめた安達さんが、メジャーを片付けながら一息吐いた。
「これなら今週中に運び終わるでしょう。向こうも受け入れ準備ができたと聞いています。土曜日の午前中で終わるでしょうか。そうすると月曜日から働けますが、どうしますか?」
「え、もうですか!?」
ハローワークや会社への手続きや、引っ越し作業はほとんど終わった。
しかしだね、それよりも重要な買い物がまだ終わっていない。
「引っ越しに必要な買い物だけして、肝心の食料を買っていません!」
「は?」
週末に帰れると言っても、土日の二日間では遠出はできない。ホームセンターに行くことは出来ても、ちょっと遠い場所にある個人のお店には行けていないのだ。
「準備期間が二週間あると言われたので、来週は少し遠くまで行って今度は食料を買い込もうと思っていたんです」
最初の週は気疲れしそうだから、今のうちにおかずの作り置きの準備をしておくとか。遠出ついでに旅行みたいなこともして、まとまった休みを堪能しようと色々な計画をしていたのだ。
スケジュール帳を開いたら、ここだけは行かせてくれと頼み込むわたしに、覗き込んでいた安達さんが固まってしまった。
「はっ。……そうですよね」
こんなにたくさんの面倒な手続きをしてもらって、「早く働きたい」じゃなくて「もっと休みたい」とか。
仕事を舐めていると言われても、なんのために奮闘してきたんだと怒られても、わたしから文句は言えないことだ。
前の会社を辞める時にもらった、旅行券を使おうかとも考えていた。
けれどこれは旅行会社に行って使える商品券ということで、今からではツアーへ参加も旅行の予定を考えてもらうことも難しいと思って止めたのだ。
引っ越し期間として用意された二週間なのに、こんな考えもおかしいもんね。
固まったままの安達さんの前から、スケジュール帳を閉じて頭を下げた。
「すみません、色々と面倒なことをしていただいたのに、わがままを言いました。土曜に荷物を運んで日曜のうちに整えて、月曜から仕事に入ります」
今までなんのために頑張って、何をしに行くのかって話だよ。
怒られるだけならまだマシで、そんな浮ついた奴はクビだって言われるかもしれないくらいに、今のわたしの言動は自分勝手すぎている。
聞かなかったことにしてくれないかと顔を上げたら、口元とお腹を押さえて震えていた。
「安達さん?」
「いえ。……とても沢村さんらしいなあと思っただけです」
「笑いをこらえていませんか?」
「笑っていませんよ。……フッ」
「……」
咳き込んで誤魔化しているけれど、明らかに笑っているじゃないか。この野郎。
どこに笑える要素があったんだと見上げたわたしに、改めて吹き出す安達さん。
「乾物を入れたことで、他の食料も入っていると思っていました。確かに向こうの食べ物に問題はありませんが、こちらの世界のものもないと不安ですよね」
「はあ……」
とりあえず、最初の予定通りにもう一週間、待ってくれることになったらしい。
「向こうも部屋は整っていると言われましたが、二週間休みの予定で薬作りをすると話していたので、問題はないと思いますよ」
「それなら、人手はあったほうが良いんじゃないですか?」
乾燥させるために屋上で葉っぱを広げるとか、種を炒るとかくらいしかできないけど。そういう下準備が大変だと前に言っていたことを話したら、やんわりと首を振られてしまった。
「今回の休みは、弟子に仕事を仕込むことが中心です。木の皮を剥いだり燻したりするそうなので、あまり戦力になりませんよ」
「……ですね」
これも前に、弟子が話していたことだった。
燻す作業は面倒な処理と見極めが必要な仕事だから、きっと親方もじっくり教え込みたいんだろう。
わたしがいないほうが作業が進みやすいなら、ありがたく休ませてもらおうか。
「いや。だからって食べ物を買い込みたいから休むのは、どうなんですか?」
「沢村さんらしいと言ったじゃないですか。親方も弟子も納得してくれますよ」
「はあ……」
そういうわけで、この土曜には荷物を置きに行くだけで、次の週もお休みということになった。
「まとまった休みはこの先しばらく取れないでしょうから、堪能してくださいね。ああ、そうだ。引っ越しそばなどは用意しますか?」
「そばというか、前に気に入ってくれたチョコレートの別な味を買う予定です」
「それは良いですね」
わたしの食い意地を親方も知っているから問題ないという言葉に、わたしは納得いかないんだけれども。
ジトッとした視線を向けたわたしに、ポンと手を叩いた安達さんが、にこやかに振り返る。
「そうだ。食料を買い込むといっても、一週間丸々かかりませんよね?どうせなら前に行った、海辺の街に行くのはどうでしょうか?」
「え?」
海辺の街というと、二泊三日の研修旅行で過ごした街のことかな?
「例の飛竜がお店に何度も来て、誘っていたじゃないですか。そちらへの行き方がわかれば、次からは休みの日に一人でも行けますよ」
あの街で買ったお酒は、非常に美味しかった。
それ以外でもこっちにはない美味しいものがあったことを思い出して、そこでも食料を買い込もうという方向に計画を変更する。
「良いですね、行きましょう!」
何より、ここでわたしが会いに行ったら今後、飛竜にどつかれずに済むだろう。
アレは本当に痛かったから、二度と勘弁して欲しい。
わたしがすぐに賛成したことで、改めて来週のスケジュールを変更していく。
「行きはこちらから船で向かうことになりますが、帰りは飛竜でひとっ飛びができます。どんなに買い込んでも大丈夫ですよ」
「へ?」
いま、ひとっ飛びとか言った?
ゆっくり顔を上げたら、いつもの胡散臭い微笑みを満面に浮かべた安達さんが、もっと恐ろしいことを呟いた。
「飛竜は自分に乗って欲しいんですよ?ただ顔を見せに行っただけでは、店に突撃しに来るでしょう」
「うぇっ!?」
お酒にチーズに魚に、重くてかさばって鮮度が大切なものを買いたいけれども。
二度と、もう二度と空は飛びたくないと思っていたのに……。
「ちなみに、いくら積まれても私は買い出しに行きませんので」
「ぐぅ……」
付き合うことは良いけれど、代わりに出掛けないと釘を刺されてしまった。
「行かないという選択は、沢村さんにはありませんよね?」
「……うぅ、い、行き……ます」
「では、そのように飛竜の飼い主のダイロさんにも伝えておきましょう」
「……」
やっぱり見た目ヤクザな社長さんよりも、安達さんのほうが絶対に質が悪い!




