4話:引っ越しの準備 後編
今日は引っ越し初日です。
まあまあ晴れてくれた空を見ながら、そういえば向こうの世界に梅雨というものはあるのだろうかと考える。
「……傘も持って行ったほうが良いかな?」
向こうで必要はなくとも、こっちの六月は梅雨だ。
扉を出た途端に雨が降られても、例のビルの近くにはコンビニも何もない。
そうすると大きめの傘を用意しておきたいところだけれど、折りたたみのほうが不自然じゃないかな。
空梅雨で何も降っていないのに大きい傘を持っていたら、かなり恥ずかしい。
「ん?でも向こうでは、雨って降るのかな?」
今までは屋上で葉っぱを乾燥させられるくらい、少し暑いと感じる気候だった。熱くても蒸し暑いというわけではなかったけれど、年中晴れというわけではさすがにないよね?
雨に雪も、それなりに降るよね?降るのか?……わからない。
通り雨みたいなスコールのようなアッサリした雨しか降らなくて、傘を知らない世界だったらどうしよう。
向こうで目立つことも困るけど、こっちで不審者に間違われてももっと困る。
「うーん……。こう考えると、持って行かなくちゃいけない物が多すぎない?」
今まで異世界に行ってしまった人は、何を持って行ったのかが気になるよ。
……ピンポーン
両手が空く雨具が良いかとまで考え込む間に、時間が来てしまったらしい。
鍵と扉を開けたら、いつもの人が立っていた。
「おはようございます、沢村さん」
「おはようございます、安達さん」
前に、カレーを持って行った時とは違う台車と一緒だ。
それ以外は薄いリュック一つという安達さんは、ちょっと軽装すぎない?
「私の荷物と言ったら、マスクとエプロンとタオルくらいですからね」
「こっちから身に着けて行けば、リュックもいりませんよ?」
「エプロンにマスクとタオルを身に着けたまま電車移動するんですか?嫌ですよ」
「……」
カレー鍋を入れた段ボールを運ぶことのほうが、恥ずかしいと思うんだけど。
どうも感覚が違うなあと思いつつ、詰め込んでおいた段ボールを運んでいくか。
「うわっ。調味料の箱が一番重いですね」
「底は二重にしてありますけど、諸々、気を付けてください」
「わかりました」
今週末には帰ってくることが決まっていても、新しく買い直した調味料は満タンのためにとっても重い。
詰め込み過ぎたかなあと思うけれども、まあ、仕方がないね。
「そういえば次からは五日間、この部屋は無人になりますよね?冷蔵庫の中身とか大丈夫ですか?」
冷凍ものなら問題ないかもしれなくても、さすがに冷蔵庫に残しておいては色々な意味で危険だろう。
最後の段ボールを運んだ安達さんが、少し顔をしかめながら尋ねてきた。
「大丈夫にするつもりです。生ゴミと一緒に月曜の朝、残りものを片付ける予定でいます。出発前にはブレーカーを落としてから出ます」
ウチで常備、電源が入っている家電が冷蔵庫しかないからできることだ。
洗濯機もあるけれど、使う時にだけ電源が入っていればいいもんね。
「漏電や何かがあると困りますからね。いちいちコンセントを外していくよりも、ブレーカーを落とすほうが確実です」
問題は、帰ってきてからどのくらいホコリが積もっているか、だ。
今まで五日も家を空けたことがないから、こればっかりはわからない。ましてや来月からは、二週間に一回しか帰ってこれないんだから、もっと未知数すぎる。……恐ろしい。
「粉ものは置いていきませんから、虫が湧くことはないと思います。流しやお風呂場の排水溝も、掃除をしたら蓋をするので、排水管から虫が入ることも防げるとは思うんですよね」
とりあえずの対処法を話したら、小さく安達さんがホッとした。
いや、お店の掃除中に小さい虫が落ちてきたくらいでオタオタする安達さんに、虫の処理なんて頼みませんから。
「一応、色々なことを考えていたんですね」
「当たり前です」
帰ったら大量の虫が住んでいたなんて、退治だけで一晩掛かりそうじゃないか。
ホコリは仕方がないとしても、虫は絶対に、どこからも入る隙を与えたくない。
拳を握って力説するわたしに、少し青い顔になった安達さんも頷いた。
「……そうですね。扉を開けたら虫に出迎えられることを想像すると、帰りたくなくなります」
「でしょう?」
この部屋の主はわたしだってことを、入ったことを後悔させてやるくらいに叩きのめしてやる!
「心強いですね……」
「だてに一人暮らしが長くありません」
そういう安達さんも一人暮らしだろうに、虫が出た時はどうしていたんだろうか。
魔王の社長さんを呼んで、文字通り消し炭にしてもらったとか……?
それはそれで羨ましいなと思いつつ、ホコリの処理も伝えよう。
「玄関のすぐ近くに床掃除用の洗剤と雑巾、モップと殺虫剤も置いていきます」
「とても頼もしい道具たちですね」
これで五日間、もしくは十二日間出掛けても問題はないだろう。たぶん。
金曜に帰ったら即・掃除って、疲れるスケジュールだけど仕方がない。
「それより、お布団が湿っていそうなことが気になるんですよね。わたしの場合、布団を畳んで仕舞っておくので」
帰ったら掃除をしつつ部屋に入り、布団を乾燥機にかけながらお風呂を沸かして夕飯を作って、お風呂に入って夕飯を食べて片付けをした後に、ふかふかの布団の出来上がり、なら問題ないかな?
うーんと考え込むわたしに、安達さんも難しい顔をする。
「カーテンを開けて日差しの入る窓辺に布団を干しても、取り込むのは金曜の夜になります。明らかに人がいないと知らせるようなものですから、難しいですね」
「はい。布団を担げる距離に、コインランドリーはあるんですけど……」
「天気と季節によっては、持ち歩けませんね。それに、もっと夜遅くに取りに行くことになりますので、別な意味でも危険です」
変な人に追いかけ回される心配が皆無なのは、三十六年間の男っ気のなさが実証してくれる。しかし殺人鬼とか通り魔は、どうしようもないもんなあ。
「それに布団を担いで両手が塞がっているし、いざという時に動けないことは困りますよね」
窃盗犯を叩いた、三十センチ定規をいつも持ち歩いた方がいいのかな?
それとも金属の定規にしようかと呟くわたしに、そこではないと冷静に突っ込みが入った。
「……いざという時はないほうが良いんですよ。沢村さんはもう少し、身の回りに気を付けてください」
いくらいままで何もなくとも、これから何があるかわからないだろうと怒られてしまった。
「いや、わたしですよ?」
「飛竜やランプの精に懐かれているじゃないですか」
「ああ、はい……」
つまり変態に好かれる可能性が高いと言いたいのか。なんだと。
「ランプの精はアレですけど、飛竜は可愛いじゃないですか」
「はいはい。そろそろ行きますよ」
しっしと手を振ったら、最終チェックをしてようやく家を出ることにする。
ガラガラ ガラガラ……
前の台車よりは丈夫かもしれないけど、リヤカーみたいなゴツイ台車だなあ。
傾いても大丈夫なように、段ボール周りは柵で囲まれている。
ズレないようにロープで固定もされているし、何よりタイヤが大きいから揺れも少なくて割れ物にも安心だ。
「こういうものも、会社の備品なんですか?」
「そうです。瓶や茶碗などの、割れ物を持って行きたいという人は一定数います。昔、フィギュアを持って行きたいという人もいましたね」
「はあ……」
フィギュアって、持って行ってどうするんだろうか。
それを見本として腕を磨いて、造形師とか芸術家として生計を立てるとか?
「その世界で役に立つのなら、持っていく理由になるでしょう。そうですね……。沢村さんでいうと、チョコレートのようなものだと言えばわかりやすいでしょうか」
「わたしのチョコレートが、その人のフィギュアなんですか?」
至高の食べ物と、娯楽品のフィギュアが同列になるの?
お腹もふくれないし美味しくないのにと首を傾げたら、そういう意味ではないと首を振る。
「沢村さんはチョコレートがないと困るでしょう?疲れた時やホッとしたい時の、心の拠り所のようなものがチョコレートかフィギュアかって話ですよ」
「ああ、なるほど」
それなら、フィギュアはその人にとってなくては困る大切なものだ。
大事に包んで、異世界に真っ先に持って行きたいものになるだろう。
ようやく理解したわたしに、ちょっとだけ肩をすくめた。
「さすがに部屋いっぱいのコレクションを全部持って行きたい、と言われると困りますけどね。それが未練になると、今度はこちらが困ります。持ち運びに関しての要望は、なるべく叶えることにしているんです」
「……大変ですね」
部屋いっぱいのフィギュアって、段ボール何箱分になるんだろうか。
そしてそんなに大量のフィギュアを持って行っても問題ないくらい広い部屋が、異世界に用意されているということなんだよね?そうか……。
なんだか異次元な話で、ちょっと混乱してきたよ。
「世の中にはいろんな人がいますよね……」
「そうですねえ……」
そういうこととして納得をして、脇に置いておこう。よし。
「あ、そうだった。雨とか雪って、向こうは降るんですか?」
気温は、全体的に少し高めかなあと一か月過ごして思ったけれど。これから平日は毎日、住む世界なんだから、季節や気候も知っておかないと困るよね。
わたしの問い掛けに、少し考え込んだ安達さんが上を見ながら呟いていく。
「季節や気候は、こちらと似たようなものですよ。雪は降りますが、雨、雨……」
どうだったかな?と首を傾げるくらい、記憶にないことらしい。
「雨が降らなくて、水問題とかは大丈夫なんですか?」
日照不足も心配だけれど、雨が降らなくても困る。雪がたくさん降るなら、問題ないのかもしれないけれど。
「作物はきちんと育つ環境ですよ。あの街よりも南に行くと砂漠なので、どちらかというと乾燥寄りの世界です。雨は海側にしか降らなかった気がします」
「それなら傘とか雨具とかは、必要なさそうですね」
「はい。差している人を見たことがありません」
それならやっぱり、折り畳みの傘のほうが驚かせることがなくて安心か。
「あのビルの部屋に、置き傘をしても良いですよ?名前を付けておけば誰も持って行きませんし」
「わかりました」
これからこっちは雨が降る季節だ。向こうに必要がなくても、ビルまでは持っていかないといけないだろう。
いっそ、長靴も置いておこうか。
「雪はたくさん降りますが、歩きにくいということはありません。暖房器具はありませんが、似たようなものはあります」
「ふぅん……」
電池で動く携帯の扇風機は持ち込めても、電源が必要なストーブは無理だ。そもそも、灯油も何もないだろうし。
似たような暖房器具がどんな物でも、ホッカイロを買い込んでおいたほうが無難かな。
「……季節外れの会話でしたね」
「熱くなってきました」
ストーブにホッカイロって……これから夏に向かっている季節に話すことじゃなかったわ。




