3話:異世界研修一ヶ月 初日 大掃除
「さて、と」
掃除の基本は上から下へ、だ。
二階と三階の外壁は掃除をしなくていい場所みたいで、わたしの担当は一階部分だと説明された。
まあね、一階だけでも高すぎて、長い梯子を渡されても届くか心配だもんね。
「サワッち、この梯子で届きそうっスか?」
運んだ梯子を壁に置いたら、わたしの身長で扉の上まで届くのかと、心配されてしまった。
二メートルはありそうな親方が、余裕で行き来できる扉の、さらに上までが一階部分だ。
掃除をしてほしい場所の説明を聞きながら、一番上の段まで上ればイケそうかなと、首を傾げつつも頷いてみる。
「大丈夫だと思います。……たぶん」
ホウキの柄は長いから、何とか届くんじゃないかな。
でも梯子の一番上まで上がっても、ホウキで空を切る仕草をしたわたしに弟子が首を振り、ダメだこりゃと安達さんに顔を向けた。
「ダメだったら、アツさんに」
「嫌です」
「……は当てにならないっスから、何か、こう……あの、アレしてくださいっス」
「わかりました、頑張ります」
ニコニコと微笑む安達さんを早々に切ったら、自分で何とかしてくれと全面的に投げられた。
「届かなかったら、明日は家から道具を持ってきます」
「それがいいっスね」
じゃあ外はよろしくと、弟子が店内に戻っていく。
「ふう……。さて」
掃除だってわかっていたら、それなりに準備をしてきたものを。
関係ない文具を詰めたウェストポーチを叩いたら、安達さんにはやれやれという風に、肩をすくめられてしまった。
いや、話せばいいんだよ、ただ単に!
ホウレンソウがなってないと言うわたしに、どこ吹く風で軽く手を振るだけとはどういうことだ。
「まったく……」
「次からは逐一、突っ込んでくださいとお願いしたでしょう?」
「遅いんですよ」
「お互いさまです」
……この野郎。
まったく反省が見えないこの男の頭上に、大量のホコリを落としてやろうか。
「あ、そうだ。マスクってつけても……大丈夫ですね」
「ええ。白や黒でなければ問題ありません」
ホウキを握ったわたしを見たら、すぐさまグレーのマスクをつけていた。ついでに別な眼鏡も掛けて、サッサと扉から離れていく。
そっちは風上じゃないか。つまり、安達さんに向かってホコリが振り落とせないということになる。
用意周到で、抜け目のない安達さんには小さな溜息を吐き出すだけにして、これ以上はこっちが疲れるだけだと壁に向き直ることにしよう。
わたしも持ってきたピンクベージュっぽい色のマスクをつけて、頭にはハンカチを被ることにした。三角に折ったら、後ろに結んで、と。
「素晴らしい掃除の格好ですね、似合っていますよ」
「……それは、どうも」
ちっとも嬉しくない褒め言葉を、どうもありがとうございますっ。
シャッシャッ シャッシャッ
「……」
雨避けの屋根までは何とか届いたことで、そのまま軽く掃いていく。
できれば拭きたいんだけど、届かないから無理だね。諦めよう。
特殊な……三段梯子、だっけ?ああいうのじゃないと、わたしの手には届かないと思う。
そんなものは家にないし、ここまで持ってくることも無理だけど。
「ふぅ……」
天井まで三メートルは余裕である壁を見上げたら、首をこまめに揉まないと大変そうなこともわかる。
さすがに湿布を貼りながら、仕事はできないもんね。
今日は首を中心に、念入りにマッサージをしよう。
「……」
屋根のホコリを落としたら、次は『ガーゴイル』と呼ばれた親方が作った悪魔像を磨こうと、真正面から向き直った。
「……」
目が見開かれているからか、何かこう、微妙に見張られているような気がするんだよね。
わたしは真面目に言いつけられた、掃除の仕事をしているだけで、怪しい者ではありませんので。
挨拶したのに掃除を始めたわたしを、何者かと警戒しているんだろうか。
チラチラ像の目を気にしながら、そっちにはホコリが被らないように気を付けていこう。
下?下の人は最初から気にしていませんよ。
何かたまに叫んでいるけれど、全面的に無視だ。
「虫っ!飛んだ!?」
「……うるさいなあ」
小さな虫が降ってきて、飛んだくらいでガタガタ言うんじゃない。
華麗に無視をしたら、掃除に集中することにしよう。
「ふぅ……。とりあえず、屋根は終わりかな」
梯子から降りてホウキを置いたら、バケツに水を汲んでこよう。
水道の場所がわからないな。店内に入って声を掛ければ、さすがに弟子か親方が出てきて教えてくれるはず。
「水道の場所くらいは、私も知っていますけど?」
「お店の人に訊くことが筋でしょう」
「それもそうですね」
いくら勝手知ったる場所でも、カウンターの奥に入ることも水を汲むことも、店の人に許可を取ったほうが問題が少ない。
「ん?」
あの像は何でできているんだろう。
材質によっては、水洗いをしたら錆がつくよね。
乾拭きでいいか訊こうとカウンターを覗いたら、ちょうど弟子が顔を出した。
「なんスか、サワッち?バケツ?」
「あの……扉の上の、像の洗い方について訊きたくて」
「像?」
ガーゴイルが一般的な呼び方なんだろうか。
入り口の扉の上に飾ってあるものの洗い方を尋ねたら、それは親方が作ったものだから、直接訊いてくれと階段を指差された。
「失礼します」
カウンターの横についている、小さな板を押して中に入った。その奥の扉を横に引くと、小さな作業場みたいな部屋が現れる。
奥にある階段を見つけたら、二階にいるという親方に声を掛けよう。
手作りっぽい木の階段なんて、懐かしいような、危なっかしいような。
親方が行き来をしてるなら大丈夫なんだろうけどと上がっていったら、山積みの箱が目の前に飛び込んできた。
「うわっ」
所狭しと並んでいる箱の量が尋常じゃない。こんなに大量の、箱いっぱいの薬草が必要なお店なの?
たった一週間で在庫確認と片付けが終わるんだろうかと呆然と見上げていたら、奥の部屋っぽいところから親方が顔を出した。
「おっ!?……あぁ、サワか。何だ?」
ポツンと黙って立っていたわたしを見て、親方がギョッとする。それもそうか。驚かせてすみません。
「上がる音が聴こえねぇからよ。何だ?」
親方はその巨体で、どこを歩いてもミシミシという音が響く。弟子も身長があるからか、軽やかだけどタンタンという音がする。
わたしはといえば、まったくの無音。ミシともタンとも響かず、忍者のように、いきなり目の前に現れたのかと勘違いされたみたいだ。
存在感を出したほうがいいのかと思いつつ、次からは声を掛けながら上がることにして。
「はい。入り口に飾ってある、ガーゴイルという像はどうやって磨けばいいですか?」
ガーゴイルが金属なら、水拭きは錆が出るから悪手だ。でも艶を出すなら洗剤を使うか、二度拭きがいいと思うと話してみた。
「水拭きは却下だ。乾拭きで、丁寧に扱ってくれや」
「わかりました」
親方が作ったことで愛着があるのか、丁寧に、そして優しく扱うようにと言っていった。
それなら隙間まで、しっかり磨きあげることにしよう。
「……おい」
「はい?」
バケツに水を汲むのは置いといて、尻尾から磨けばいいかと階段に向かったら、遠慮がちな声が後ろから掛けられた。
「?」
「いや……お前は、アレが怖くないのか?」
「え?」
アレとは、ガーゴイルのことかな?
最初に見た時は、迫力があるなあと固まってしまったけれど。
「はい、怖くはありません。この店の看板なんですよね?お店を守っているようでカッコいいです」
「カッコいい?」
「はい」
爪は鋭くて角と耳は尖っていて、口は裂けていて。尻尾まであるし、目はこっちを睨んでいるような、ものすごーく厳つい感じだけど。
「親方のお店にピッタリな雰囲気だと思います」
「……そ、そうか」
わたしの言葉に親方は、毒気が抜かれたというか、何だかとてもホッとした顔をしていった。
「では、掃除に戻ります」
「あぁ、頼んだ」
ヒラヒラと手を振った親方が、奥の部屋に戻っていった。
「はい!」
まだ初日だけれど、掃除も立派な仕事の一つだ。
頼りになるところを見せるためにも、ピカピカにするぞ!
「……」
しかしこう、改めて真正面から見ると、どこから拭けばいいのか困る像だな。
最初に考えた順番通り、尻尾から拭いていくことにしよう。
ん、なかなか硬いな。
鱗がビッシリと並んでいて、ただ拭くだけでは細かい汚れが落ちないことに気が付いた。
これは明日、使い捨ての歯ブラシを持ってきて念入りに磨くことにしよう。
それなら他より平らな顔にいこうかと梯子をズラしたら、思いっきり目が合ってしまった。
「こんにちは」
「……誰に挨拶をしているんですか?」
「こちらの方です」
だって、梯子を上ったら目が合ったんだもん。
拭きますという意味も込めて、ぺこりとお辞儀をしたら下から突っ込まれた。
妙な視線を下から感じつつ、無視して掃除を続けよう。
「……」
ゴシゴシ拭くと、さすがに痛いよね?
額っぽい場所や頭を、ゆっくり丁寧に、親方に言われたように拭いていくことにする。よし、ちょっとは綺麗になったかな。
「……」
困った。
当たり前だけど像は目が開きっぱなしで、目玉を拭いていいものか悩んでくる。
挨拶をした手前、目玉を雑巾でって、ちょっとアレだよねぇ。
「どうかしましたか?」
うーんと悩んでいたら、下から声が掛けられた。
わたしの監視役と言ったように、しっかり見ているらしい。
ちょっとだけ梯子からずれたら、目玉をどうしたほうがいいか意見を訊こう。
「いえ、ただの像ですから。親方が何かの金属を彫ったものだと聞いています」
「じゃあ、拭いてもいいんですね」
そこを気にするのかと、安達さんには首を傾げられてしまったけれど。最初から見られている気がする目元は、気にならないほうがおかしいだろう。
「あれ?」
よし、拭くぞと振り返ったら、像の目が閉じられていた。
「へ?」
何で?っていうか、やっぱり動くんじゃないか、このガーゴイル。
閉じられたのなら安心だと、雑巾を握りしめるわたしに、またしても下から声が掛かった。
「何か言いました?」
「ああ、目が閉じたので安心して拭けるなと」
「……開いていますけど?」
「え?……あれ!?」
閉じられたことを報告したら、目は開いていると突っ込まれた。あれぇ!?
「……」
眼鏡を外して磨いたら、かけ直して像に顔を近付ける。
……目、開いていますね。
「大丈夫ですか、沢村さん?」
「はあ……」
目が開いているなら、目玉を磨くのは最後にしよう。また気まぐれに閉じるかもしれないしね、うん。
「いえ、動きませんよ」
「何があるか、わからないじゃないですか」
魔法はなくても、彫像が動くこともあるかもしれない。だって親方が作った大事な看板なんだし。
こういうものにはつくも神のような、何かが宿ることもあるかもしれない。
そういうことにしておいて、鋭い鉤爪を磨きあげることにする。
「サワッち、昼だよー」
「はあい!」
念入りに、丁寧に像を磨いていたらお昼の時間になったらしい。
弟子の声で梯子から降りたら、店の中に入ることにする。
「手が洗いたいんですが、洗面所はありますか?」
「カウンター入って、まっすぐの突き当たりっスよ」
「わかりました、ありがとうございます」
カウンター脇についてる扉を押すと、階段がある小さな作業場みたいな部屋だ。
扉の突き当たりというと、この奥のことかな?
一応ノックをして入ったら、さらに奥に扉があった。あ、手前が洗面所か。
ということは奥はトイレかなと覗いたら、例の、どこに繋がっているのかわからない、底が見えない和式のトイレがあった。
「……」
意外と綺麗にしていたことは助かるけれど、宿もお店のトイレもコレってことは、この世界は和式が普通なんだな。
それはいいんだけど、やっぱりこのトイレも底が見えないなあ。
「……」
「サワッち、トイレ使うんスか?鍵はついてるっスよ」
「……ありがとうございます」
使い方がわからなくて、入り口で止まっていたように見えたらしい。親切に使い方を身振り手振りで話し、鍵の位置まで丁寧に教えてくれた。
言動は軽いけど、仕事とかこういうところは、しっかりしてるみたい。
これなら「見て覚えて」とか、「一回しか言わないから」とかいう、三十六歳に不親切な対応はされなさそうだ。
「二階は散らかってるんで、三階で食べるっスよ。二人の昼メシもそっちの冷蔵庫に入ってるんで」
「わかりました。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げたら、弟子は店に戻って鍵をかけていく。
防犯意識もしっかりしているね、良かった。
「アツさん、三階の部屋も知ってるっしょ?サワッちの案内よろしく」
「わかった」
ごゆっくりと言われたことで、トイレの前だったことを思い出す。
「……」
「階段の前にいますので」
「わかりました」
トイレは入り口の真正面にあって、階段は部屋の奥だ。
音が気になったわけではないけど、サッサと手を洗った安達さんが、階段の前に移動してくれる。
入る予定ではなかったけど、入っておこうか。うん。
みんなにトイレに入ったことを知られて、かなり恥ずかしい気持ちは脇に置いておこう。うん。
「……」
いや、やっぱり恥ずかしい!!
「……お待たせしました」
「では、行きましょうか」
とても出にくいけれど、お腹がすいていることは事実だ。
ついでに親方に、目玉をどうすればいいか訊かないと。
「気にするところはそこですか?」
「目が合ったんですよ?」
「はあ……」
安達さんには、心底わからないという顔をされてしまった。
しかしだね、目が合ったんだよ。
そして挨拶をした……人?ええと、挨拶をした方の目玉を雑巾で拭くのは躊躇うでしょう、普通。
「ただの像ですよ?」
心底わからないという安達さんは無視をすることにして、階段を上がったら簡単なテーブルと椅子が用意された場所に着いた。
「ここは居住場所です。三階には、それぞれの部屋があります」
階段を上がったらとても広い踊り場があって、その目の前の部屋は空き部屋で、一番奥は親方が使っていると話していく。
「ちなみにオレの部屋は、右側の手前っスよ。襲わないでねー、サワッち」
「襲いません」
キャッと楽しそうに言われたけど、逆じゃない?いや、襲いたくなる見た目ではないことは、百も承知ですけれど。
「アホなこと言ってんな、デーイ」
「すんませーん」
親方が律儀に窘めてくれるところは、とても好感度が高いね。軽い返事な弟子に頭を抱えている親方には、同情心も湧いてくる。
わたしもそのうち、慣れた頃には、弟子の言動に頭を抱えることになるんだろうか。
……わたしが抱えられないように気を付けよう。
手前の部屋を通りすぎたらとても明るい場所があって、部屋と部屋の間に、廊下というには広いスペースが現れた。
テーブルと椅子を並んでいて、わたしのトートバッグと安達さんのコンビニの袋が置いてある。
「ありがとうございます」
「メシにしましょー」
あー腹減ったと言いつつ、親方が座るのを待っている律儀な弟子だ。
師弟関係が良好に見えることと同じくらい、とにかく弟子が親方を尊敬している感じが伝わってくる。
良い空気の職場だなあ……。
鞄からお弁当箱と水筒を出したら、わたしも一緒に食べようっと。
「いただきます」
「いただきます」
「……何スか、それ?」
「え?ああ、食べる前の挨拶です」
「ふーん」
手を合わせて「いただきます」と言うのは、この世界では奇妙にうつるのかな。
それなら人前でしないほうが良いかと思ったけれど、不思議な顔をしただけで、スプーンを握ったら食べ始めた。
宿屋で朝食を摂った時も、変な顔はされなかったもんね。
この世界で決まった挨拶はないらしく、「メシー」と言ったら食べ始めた。
「……」
じゃあ食べるかと蓋を開けたわたしに、横からいつもの視線を感じる。
「何ですか、安達さん?」
「その、サンドイッチの具は何ですか?」
やっぱり、前と同じく安達さんが気になって見ていた視線だった。
食にこだわりはなさそうなのに、人の物だと美味しく見える性質なのかな?
「左は普通に、ゆで玉子に辛子マヨネーズを和えたものです。真ん中はキャベツの酢漬けに、ハムを混ぜたもの。もう一種類はレタスとキュウリとカリカリベーコンです、以上」
途中で冷蔵庫があると聞かされたくらいだから、保冷剤以外にも腐りにくい処理をしないと、お昼まで不安だからね。
マヨネーズには辛子、キャベツには酢を混ぜて、キュウリは塩を揉みこんできたのだ。
そんな三種類を二つずつ入れてきたと話して、ようやく手を伸ばして食べ始めるわたしを見つめる視線が濃くなった。……何だ。
「何ですか?」
「美味しそうですね」
「うっ」
チラッとでも、横を見なければ良かった。
じいいいっと熱視線を送り続ける安達さんが、わたしの手元から動かない。
「私の冷やし中華と半分こしませんか?」
「嫌です」
「まあまあ。ちょうどほら、大盛りを買ってきたんですよ」
まだ手を付けていないから、自分のお昼と半分こにしようと迫ってくる。
鬱陶しい、非常に。
ものすごく歪んだ顔を向けても、「醤油タレですよ」、「キクラゲ入り!」と、謎のアピールをしてくる。しつこい。
「今日は暑かったじゃないですか。ほら、冷やし中華でサッパリしませんか?」
「……」
確かに、今日は暑かった。
しかしここで半分こを許すと、毎食言われそうでとても困る。
嫌そうに顔を歪めるわたしと、ニコニコ微笑みながらグイグイ迫る安達さんを、親方と弟子が交互に見やりながら呟いた。
「……おいアツ、しつけぇぞ」
「アツさんて、サワッちに嫌われてません?」
よくぞ言ってくれました!
「胡散臭くて鬱陶しいんです、この人!」
「失敬ですよ、沢村さん」
わかってくれる同僚で良かったと顔を向けた隙に、サンドイッチを半分つかみにかかる鬱陶しい人。
「ちょっ、わたしのお昼ご飯!」
「半分、半分」
「許可してないっ」
ふんふんと歌いながら、勝手に分けっこをするんじゃない!
「ごちそうさまでした」
食後の番茶を飲んで、やっと一息つくことができた。
横の人が、満足そうな顔をしているところがまたムカつく。
もしやこれ、毎食することになるの?最悪なんですけど。
「アツさん。サワッち小さいんスから、たかったらダメっスよ」
「半分にしたんだから、一方的に搾取しているわけではない」
「……」
「めっちゃ睨んでるじゃないっスか」
食べ物の恨みは怖いんだからね、まったく。
「あ、夕飯は何ですか?」
「夕飯ですか?」
ジロッと睨んでいたわたしに振り返った安達さんが、何事もなかったかのように夕食のメニューを訊いてきた。
今日は久しぶりの仕事の初日ということで、温めるだけで食べられるようにしてあるんだよね。
「疲れそうなので大量のカレーを仕込んできました。後はフルーツサラダとワカメと卵の中華スープです」
香辛料は疲労回復の役目もあるし、何よりアレンジがしやすいところがカレーの良いところだ。
じゃがいもを入れていないから、冷凍もできるしね。
わたしの言葉に、安達さんが怪訝な顔をして首を傾げる。
「どんなカレーなのか、想像がつかないんですけど」
「玉ねぎとリンゴを、みじん切りにしただけのルーですよ。今日は普通に食べて、明日の朝はピーマンとか野菜を揚げたものを添えて。夜はカレーうどんにしたら、明後日はトマトを足してパスタと絡める予定です」
ちょっとずつ変化をさせられるところも、どれも美味しい保証のあるカレーってすごいよね。
ゴロゴロ野菜のカレーも良いけれど、一人暮らしならアレンジできるルーのみのほうが色々と助かるのだ。
「あくまでも予定なので、途中で飽きたら冷凍するつもりです。……はっ」
弁当箱を片付けながら、前と同じように今晩から明後日までのメニューを話してしまった。
「……」
そろそろと横を見たら、とても輝かしい、満面の笑みを浮かべている安達さんがいた。
「牛肉の塊を足したら、もっと良い出汁が出て美味しくなると思いませんか?」
「……ウ、ウチのカレーは豚肉派です」
美味しそうな提案をしてくるが、あいにく我が家は豚肉派だ。
ちょっとグラッとは来たけれど、何とか踏ん張ったわたし、エライ!
まさか断られるとは思わなかったのか、意外そうな顔をしている安達さんには、してやったりな気分になるところも良いね。
ありがとう、お母さん。
牛肉なんて、滅多に出ない我が家で助かったよ!
「……」
いや、すき焼きの時は牛肉だったからね?
別に家が貧乏だったわけでも、牛肉が嫌いなわけでもない。むしろ肉はなんでも大好きです。
肉以外の魚も野菜も、っていうか食べ物全般に大好きです。はい。
ただ牛肉は食卓に上がる頻度が少なくて、食べ慣れていないだけで。……って、心の中で訂正したら、ちょっとだけ空しくなってくるね。
撃退できたから良いけどさ。
初任給が出たら、例の回らないお寿司屋さんに行こうと考えていたけど。ここは奮発して牛肉のステーキでも食べようかなあと考えるわたしに、めげない安達さんはしつこかった。
いや、しつこい安達さんはめげなかった、だね。めげろよ、少しは。
「では、まだ高い夏野菜を揚げるのはどうですか?ピーマンも良いですが、カレーにはナスも美味しいですよねえ」
「……野菜は旬の時期が一番美味しいんですよ」
ナスも欲しかったけれど、高くて諦めたのだ。
そんな昨日のわたしを、知っているかのような言葉だね。今日も的確なところを攻めてくるな。
それでも却下するわたしに、とうとう二人が間に入ってくれた。
「アツ、諦めろ」
「そっスよー」
「二人はカレーがどんな料理かわからないから、簡単に諦められるんですよ」
カレーの専門店に行って食べろと言うわたしの言葉に被せるように、安達さんがカレーの美味しさを熱弁し始めた。
「へー……、それって美味しいんスか?」
「それはもう!」
「ふぅーん……」
ひいっ!?
「フツーの、フツーのルーを入れただけのカレーですから!」
安達さんの謎の熱弁で、抑えていたはずの二人の視線が追加されてしまった。
「では、明日の昼はカレーパーティですね!」
「勝手に決めないでくださいっ」
味方を得たとわかったら、すぐに手を打つところは今日も素早いな。
「大丈夫です。材料費と手間賃は上司の財布……コホン。経費で落とすように申請しますから」
「……」
ニコリと微笑んだ安達さんの言葉で、鍋を丸ごと運ぶことが決定してしまった。
っていうか、そこは自分の財布から出しなさい!




