0話:プロローグ
五月吉日、月曜日。
いつも通りの時間に起きたら、買ったばかりの紺色のシャツとジーンズをはいて髪を一つにまとめていく。
「あ、しまった。髪を留めるピンは、黒でもいいんだっけ?」
こういう細かいところも、きちんと聞いておくべきだった。
そのために髪も染めたのにと鏡を見て、先日行った時は問題なかったことを思い出す。
「白シャツも、柄が入ってたらいい世界だもんね」
一応、マスクをしてもいいかと一緒に訊いてみようか。
「今日から一ヶ月は、十時から十五時の勤務でいいんだよね」
先日も活躍したウェストポーチには、今度は文具が中心に入っている。
新調した三十センチ定規から、フセンにメモ帳、クリップにホッチキスまで。
「カッターとハサミに、ペンと替え刃。替芯とメモ帳のリフィル……」
そうそう。電卓は大丈夫なのかわからなかったから、小さいソロバンも用意したのだ。一応、使えたら楽という理由で携帯用の薄い電卓も入れてあるけれど。
どちらか片方だけでも、使えると助かるな。
「これはお兄さんに確認することにして……あ、保冷剤入れなくちゃ」
一つ一つ確認したら、昼のお弁当と水筒を別な鞄に入れて準備が完了した。
「ハローワークカードと財布と時計も大丈夫、と」
ハローワークに通うことになってからは、電車のICカードを使っていたけれど。やっぱり定期のほうが慣れているということで、今日から一か月は会社時代と同じものにした。
「五つ先の駅に行くだけだもんね」
ICカードでは、ハローワークに面接場所、市役所やコミュニティセンターと色々行ったなあ……。
春になっても決まらなくて、かなり焦って異世界という別世界まで案内されて。ようやく就職先が決まりそうなところまできた今に、遅まきながら感動してきた。
「……はっ。ボーッとしている場合じゃなかった」
今日は初日なんだから、他の荷物も確認したら家を出ないと。
時間を気にしながら財布の中身も確認して、前回は持って行かなかったスマホが入っていることを確かめる。
そう、今回はスマホを持っていくことにしたのだ。
十五時に帰れるっていうこともあるけれど、もしも就職が本決まりになったら、月の大半は向こうに行きっぱなしになるのだ。せめて、目覚ましが使えるかどうかだけも確かめておきたい。
「電波が届けば十五時に知らせしてくれるだろう、たぶん」
唯一の心配は、電気が通っているのかということだ。
泊まった宿にも、コンセントはなかった気がするんだよね……。
これはまあ、モバイルバッテリーを持っていけば解決するだろう。二つで二週間もつのかは、わからないけれど。
これは、行く前に実験をしておけば良かったな。
使えなかったら、終わり次第に解約をしに行こうっと。
今日の十五時にはこっちに戻ってくるから、そんなに神経質にならなくてもいいんだろうけど。忘れ物がないか、逆に何を持って行くのかを確認していく。
持っていく物まで確認しているのは、無くした時のためだ。
前回はなかったけど、盗られたりするかもしれないし。一応、念のため。
「今回は住み込みまではしないから、文具だけで良いんだよね」
最低限、これだけあれば仕事ができるかなというものだけを詰めこんでみた。
ここから必要のない物、足りなかった物を入れ替えていくつもり。
「しかし、すでにぎゅうぎゅうだな……。替え刃とかはいらなかったかな?」
そんなにすぐには消耗しないよね。替芯も置いていくことにしようか。
文具だけで大荷物になるのなら、住み込みになった場合の荷物の量も考えておかないと困りそう。
鍋とか食器とか、もちろん包丁なんかは絶対にいる。
ザルとボウルもいるし、お皿の種類はどの程度、持って行けばいいんだろう。
いっそ、プレート皿のみにしようかな?
いや、ダメだ。だって基本は和食だもん。つゆだくの煮物が入れられない。
鍋や食器はアパートにあるものを持っていけば良いとしても、何往復になるのか見当もつかないな。困った。
だって引っ越したのは十八歳の一回だけで、そこからずっとこのアパート暮らしだもんね。
基本はフローリングって言っていたから、住み込み先もベッドだろう。
質によっては、マットレスを足さないといけないかもしれない。
「うーん……。それなら、畳マットの上に布団を敷いて寝ようかな。っていうか、洗濯機ってある?」
オーブン付きキッチンという話はしてくれたけど、洗濯機なんかの設備については言っていなかったはずだ。
そうすると、服は手洗いになるかもしれないってこと?
下着や靴下くらいは手洗いしたことがあっても、他はさすがに洗濯機頼みだよ。
「替えのシーツや服が結構いるってことか。洗濯物は溜めたくないけど、毎日洗濯だと常に干しっぱなしにならない?嫌だなあ……」
指折り数えて、まだまだ準備が足りないことを思い知る。そして、相変わらずの情報の少なさ。
「他の四人って、本当に気楽に異世界に行っちゃったのかな?自力で就職活動から頑張る冒険者でも、色々な下準備は必要だよね?」
普通の人にはどんな説明をして送りだしているのか、一度訊いてみようかな。
何だかザックリしか話さないで、疑問に思われる前に異世界に放置している気がする。
「……あのお兄さんならあり得る。会社の方針じゃない限り、他の人はまともだと良いな」
しかしわたしの担当は、例のいつものお兄さんだ。
いまさら交換もできないだろうし、交換できても融通が利くかどうかが微妙だ。
ここはもう、お互いが諦めなきゃいけないところか。
最初の一ヶ月は、十五時に帰れることになっている。
仕事帰りに街中を散策して、食べ物や雑貨が買えるお店を見ることってできないかな?
「早めに話したら、帰りの時間を遅らせてくれるかな」
あっちの世界に行くには、事前に申請をしないといけないのだ。時間は特に厳密に決められていて、三十分以内しか遅れてはいけないことになっている。
たった三十分しか余裕がないということは、逆を言えば残業がないってことだ。そこは安心だけれども、こういう街中探検をしたい時にはちょっと困る。
時間内に帰れるように、比較的近い距離で行き来ができることは助かるんだけどね。
「三十分じゃ店の中を細かくは見れないなあ」
さすがにこっちの世界みたいに、醤油だけでも何十種類とか、豊富な品揃えではないみたい。
でもチーズを一欠片からとか、ヨーグルトの計り売りをしていたから、少しずつ買って使って好みの味を探したい。
前回は粉を使わなかったから、こっちと比較してみたい気持ちもある。
もしかしたら、超・ふわふわのパンケーキができるかもしれないとか考えると、絶対にあらゆるお店は覗いておきたい。とても。
「……」
どこまででも、いつでも、わたしが最初に考えることは食だな。
もっとこう、「新しい職場に慣れるかな」とか、「泊まった街と雰囲気は似てるのかな」とか、ドキドキワクワクはないのか、わたし。
「ないな、うん」
いつでもどこにいても食事の心配を先にする、それがわたし。
「じゃあ、行ってきますか」
掃除をして夕食の支度も済ませたら、ようやく駅へ向かうことにした。
昨年の十一月でクビになり、なんだかんだあって次の年の五月から、新しい職場の研修が始まることになりました。
沢村あゆみ、三十六歳とちょっと。
久しぶりのお弁当を持って出掛ける朝に、ちょっとだけウキウキしながら。
再就職・(仮)初日、頑張ってきます!
―――ただし、異世界ですけれど。




