25話:説明会の延長
シュンシュンと、室内にお湯が沸いた音が響いていく。
それとは別にカタカタと蓋が動く音も鳴って、こっちも良さそうだということがわかる。
「蒸し器があるなんて本格的ですね」
「そうですか?一つあると便利ですよ」
立ち上がって火を消したら、ポットに入れて茶葉をゆっくり蒸していく。
ティーバッグも便利だし、後片付けも楽だけど。こうしてじわじわ広がっていく茶葉を見ると、落ち着いてくるんだよね。
みなさん、こんにちは。
沢村あゆみ、三十六歳とちょっとになりました。
え?まだ無職ですよ。ええ、まだ。
ここはわたしの部屋っていうか家の中で。会話をしているということは、わたしの他にも人がいるということになりますね。
お茶を淹れたら切り分けたチーズケーキと一緒にテーブルに並べていくわたし。テーブルに置かれたケーキを見たら、不思議そうに首を傾げられた。
「一切れが大きくありませんか?」
「十五センチホールの四等分ですから」
自分が食べたくなって作ったものなんだから、どんな大きさにカットしても文句を言われないところがいいよね。
ただ単に、唐揚げ用に買ったレモンを早く使い切りたかっただけなんだけど。
残っている三分の一は、鱈の蒸し焼きに使う予定だ。
一人だとどうしても、レモン一個がなかなか使い切れないんだよね。
「瓶に入ったレモン果汁が売っていませんか?」
一個を無理に使い切るんじゃなくて、レモン果汁の瓶を買ってくれば解決するのではと言われてしまった。しかし、その意見には賛同できない。
なぜなら、一人暮らしには大量すぎるという問題があるからだ。
「あれこそ使い切れなくて、途中で期限切れになって捨てることになるんですよ。それなら一気にレモンを使った料理で消費した方が経済的です」
それでも十五センチホールのチーズケーキは、一人で食べるには大きすぎたね。前だったら会社に持って行けたけど、頑張って食べようと思っていたからちょうど良かった。
急にわたしの家に来ることになったお兄さんが、甘い物がイケる口っていうもの助かった。いや、それでも何でハローワークから家に移動したんだよっていうのは置いといて。
「では、茶碗蒸しと鱈が今日の夕飯ですか?」
「はい。そっちも食べたくなったので」
卵が安くて、ちょっと寒い日が続いて。それなら茶わん蒸しでほっこりしようと、今日の夕飯が決まったのだ。
しかし、何度も言うけどわたしは一人暮らし。蒸し器に茶わん蒸しを四つ並べるのではなく、レモンをかけた鱈と一緒に蒸し上げる予定にしていたのに。
四等分のケーキを見つめていたお兄さんが、いつものように黒縁眼鏡をクイッと上げながら物珍しそうな顔をしている。
「プリンはもうすぐできますよ」
「では、それまでに話し合いましょうか」
わたしは異世界に行く前のアンケート結果と、気になったことを書き溜めたメモを取り出して。お兄さんはタブレットと何かの資料を取り出したら、説明会のやり直しの始まりだ。
それがなんでわたしの部屋で、こうしてお茶を飲みながらかは、よくわからないままだね。
しかも鱈でも茶わん蒸しでもなく、蒸されているのは急遽作ったプリンとか意味がわからない。
今日はハローワークの五階で説明会があった。もちろん、異世界の。
個別面談の途中でわたしだけが居残りをすることになって、その理由が休日にはこっちの世界に帰ってきたいというもので。
これは前例がないということで、このままではわたしの就職先だけが決まらないと言われてしまったんだよね。
「困ります!」
「ええ、私もです」
他の四人はアッサリ決まったというのに、ただこっちの世界から普通に異世界に通うということが認められなくて、上の判断を仰ぐことになってしまった。
タブレットと睨めっこしていたお兄さんは、小さく溜息を吐いて電源を切った。
「沢村さんの希望をすべて叶えるには、かなりの無理をしなければいけません。他の方は先ほども伝えたように、一度行ったらそのまま向こうに定住することで同意しておりますので」
「はい……」
就職先の斡旋なだけだと思っていたわたしは、前の会社同様、いつものアパートから異世界に出勤するつもりで考えていた。っていうか、もらったチラシにも定住については書いてなかったし。
けれど他の人も案内側のお兄さんたちも、一度行ったら帰らないことが前提で話をすることが普通といわれてしまったというわけです。
「それでは困るんです。勤務がある日の間は、向こうに泊まることは仕方がないと諦められますけど。休みの日にお米とか醤油とかを補充したり、ケーキを食べたり家で寛ぐことは必須です」
「そこなんですよね……」
わたしがおかしいと言われたら、これも仕方がないけれど。年金を一括払いしたばかりということもあるけれど。
死んでもいないのに、こっちの世界と永遠のお別れをしなければいけないという感覚がわからない。
必死に、住み込みはギリギリ許容できても休日には戻りたいと訴えるわたしに、とうとうお兄さんのほうが折れてくれた。
けれど前例がないことに、派遣社員なだけのお兄さんが勝手にオーケーを出せるわけがない。そりゃそうだ。
五階の一室では、相変わらずわたしとお兄さんの二人しかいない。
他の四人は帰っちゃったし、講師の四人も本部に戻って今頃は準備をしているのだと説明された。
ハローワークと同じで、紹介状を書くとか相手側に連絡するとかかな?
「とにかく、向こう側でも納得してくれる就職先があるかどうかですね。向こうに行ったっきりになることで、情報漏洩を防いでいる意味もありますので」
「それは……、そうですよね」
わたしみたいに、異世界なら年齢制限がないんじゃないかとか、受け入れられるんじゃないかとか思う人は少なからずいるだろう。
それでもホイホイ行けないということは、色々な問題があるからだ。
これは納得していると話したわたしに、お兄さんも一つずつ指を立てながら説明していく。
「ええ、その一つが情報漏洩ですね。二つ目は簡単に辞められないことをわかっていただきたい、という意味もあります」
「逃げ出すってことですか?」
「そうですね。……向こうの世界を現実世界からはみ出した人の、受け入れ口だと思われたこともありますので」
何度も書類審査や面接で落ち続けたら、この世界で自分はいらないんだと思っても不思議じゃない。でもそれは、別な地域に行けば解決する問題かもしれないし、条件を変えればいいだけの話だったりもする。
「そのように柔軟な考えには、なかなかならないものなんですよ」
「そうなんですか」
いやまあ、誰にだって絶対に譲れない最低条件はあるだろうね。だってわたしも週一で帰れるように交渉中なわけだし。
「今まで言われなかったことですが、そちらについても今後、同じような例があるかもしれませんからね。上司に相談をして、行き来ができるか訊いてみます」
「よろしくお願いします」
それが無理なら異世界に関係する記憶を消去しないといけないと、何だか物騒なことを言われてしまった。……怖い!
「言いふらさないという契約書に判を押しても、今はSNSなどがありますので」
「何もしていませんけど、スマホがあればいつからでも始められますもんね」
「意外と、手書きの日記なんかも要注意なんですよ」
「そうなんですか?」
わたしの手帳にも今日のことは書いてある。でも『異世界の説明会』なんて書いたら、無職が長すぎて頭が壊れたのかと思われかねない。
当たり障りのない、『ハローワークで説明会 十三時より 五階にて』しか書いてない。
しいて言えば、五階という普段使っていない場所が微妙だろうか。
手帳を開いてお兄さんに説明したら、感心するように何度も頷かれてしまった。
「これなら大丈夫だと言われる可能性が高いですね。慎重なところもですが、証拠を残さないという意味でも条件を満たしているでしょう」
「……犯罪臭い言い方ですね」
発信するようなことも、ましてや写真に残すことも興味がなくて、ツイッターもインスタも何もしていないだけなんだけど。
異世界へどうかと声を掛けられた日は『次の就職先を紹介されるかも?』としか書いてないところを見て、やっぱり何度も感心するように頷いている。
なんだろう。時々、いくつに見られているのか心配になる対応をされている気がする。
じっくり手帳兼日記を見られることは微妙だけど、これで少しは行き来が認められるなら家にも案内するよ。
「ああ、その方がいいかもしれません」
「へ?」
「今から上司と相談しますので、少し待っていただけますか?」
「はあ」
何を相談したら、わたしの家に来ることになるんだ?まさか盗聴器とか仕掛ける気なんだろうか。
「いえ、違います。沢村さんの家から異世界に行く場所までの距離を測って金額を出すんですよ。交通費の」
「異世界の交通費……」
サラッと言われた言葉の意味がわかんなくて、そのまま椅子に座って待つ。
あれか。わたしが往復したいって言ったからか、……そっか。ふぅん。交通費、出るんだ。
異世界の交通費がよくわからないままに、今までの求人票にも書いてあった項目を思い出した。
良心的な会社とかマイカー通勤可ってところだと、電車賃やガソリン代の何割か出すって書いてあったもんね。
あれと同じかなと無理矢理、納得したところで、どうやら話がついたらしい。
「今から上司たちが話し合うそうです。連絡や結果は私に届きますので、その間、沢村さんの家でアンケートのやり直しをしましょう」
「やり直し?」
「そうです。別のアンケートを作って、こちらに送信してもらうことになりました。家は二駅先でしたよね?移動している間に出来上がるそうですから、駅に向かいましょうか」
この部屋の使用時間が十五時までだと言われては、出て行くしかないね。
でもそれならいつものように、一階の職業相談の窓口でも良いんじゃないと言うわたしに、異世界の話はできないだろうと正論を言われてしまった。……確かに。
ん?でも前に捕まった時は、職業相談の窓口で色々話したはず。
いや、今回はそれよりも、もっと怪しいか。
「それでなんで、わたしの家なんですか?」
「人となりを知りたいということもあります。それに、もしもこのままオーケーが出たら。沢村さんのことですから、服装とか持ち物とかも気になりませんか?」
「気になります!」
「そういうことです」
場所が変わるならサービス残業になるのではと言うわたしには、出張扱いにしてもらったと要領のいい返事が戻ってきた。
……何がなんでも、今日、これからわたしの家に来ることが決定してしまった。
会議室のテーブルと椅子を片付けて、電気を消して鍵を掛けたら。そのまま出口の扉を開けて、スタスタと駅に向かって行くお兄さん。
ちょっ……、足早い!
「ああ、これは失礼しました」
「……いえ。たぶん、身長差もあるんでしょう」
テキパキ仕事が早いお兄さんは、足も速かった。けれどそれはあれだ、わたしの足が短いわけではない。こうして立って並んで初めてわかったけれど、お兄さんは身長が高いのだ。
わたしの頭一つ分ちょっとっぽいから、百八十センチはあるはず。
ふうっとようやく一息吐いたら、いつものペースでいつもの改札を通っていく。そうしていつもの電車に乗り込んだら、わたしからも頼みたいことを思い出した。
「家に来ることは了承しましたので、チーズケーキの処分を手伝ってください」
「チーズケーキですか?」
……と、いうわけで今に至ります。はい。
毎日、朝食を摂ったら掃除をしておいて良かった。今日は昼食後の説明会ということも助かった。
だってここから昼飯も用意しろとか言われたら困るし、かといって節約中の求職の身では、外食はできれば遠慮したい。
それでもたまには甘い物が食べたいという誘惑に負けて、チーズケーキを作ってしまったんだけどね。
そして茶わん蒸しの話をしたら、なぜかプリンも作ることになってしまって。……これは本当に意味がわからないな。なんでだっけ。
「他に何を蒸すのかという話になった時に、プリンの話が出たからですね」
「ああ、そうでした」
そして「食べたい」という無言の圧力に負けて、蒸しているというわけです。……やっぱり、意味がわからなかった。
「そちらは置いておいてください。先にチーズケーキをいただきます」
「はい、どうぞ」
コーヒーを常備していない我が家では、お供は番茶だ。けれどお兄さんは喜んでくれた。コーヒーを飲みそうな顔なのに、番茶派とはなかなか渋いな。
座り直したら、わたしは改めてタブレットに送られてきたアンケートに答えて、お兄さんはスマホで本部と連絡をしているらしい。
ここまでしても前例がないというだけで、却下された過去はたくさんあることが困ったところだ。それでもこうしてわたしの希望をなるべく叶えるために、新しいアンケートまで作ってくれたんだもんね。
異世界に閉じこもりたくもないし、そっちで死にたくもないから、妥協しないで正直に答えよう。うん。
「すみません、沢村さん。パソコンを使わせていただいても良いですか?」
「どうぞ?」
アンケートの本文を読んでいたわたしに、スマホを置いたお兄さんが話し掛けてきた。
コンセントを探しているわけではなく、ノートパソコンのキーの音が気になると気を使ってくれたんだろうか。
「ありがとうございます。……今すぐ上司に抗議しますね」
「はい?」
今までで一番、とっても深い微笑みを浮かべたお兄さんは、超・高速タイピングで文字数を無言で打ち込み始めた。
……なんだろう、抗議って。無言なところが怖い。
わざわざ話したということは、わたしにも関係のあることなのかな?
ちょっと気になりつつも、目の前のアンケートに集中しなきゃね。
「あのクソハゲ」
「……」
……ええと、うん。
アンケートの『硬水か軟水か』には、軟水に丸だね。よし、次に行こう。




