第025話 一つ足りない
バルの店を出て最初の運河を渡ったところで、アルが一度だけ道順の紙を開いた。
紙には二本の水路と可動橋、それから南三番荷役場までの曲がり角が簡単な線で描かれている。さっき店で「これなら迷わない」と言っていた通り、アルは橋の形と倉庫の番号を確かめるだけで足を止めなかった。
俺の方は、どこを見ても石造りの建物と水路が続くせいで、二つ目の橋を渡る頃には最初の橋がどんな形だったか少し怪しくなっていた。
「やっぱ紙、アルが持ってて正解だな」
「マスターも見てください。私とはぐれたら困るでしょう」
差し出された紙は覗いたが、受け取らずにそのまま返した。
「はぐれない前提でいこうぜ」
アルは紙を畳みながら、小さく息を吐いた。
「その方が私も助かります」
穏やかな声だったが、今度は紙を鞄へしまった。どうやら道案内を任せた判断だけは間違っていない。
南へ折れてからは、港の中心で目についた旅人や商人が減り、代わりに厚手の革手袋や肩縄を身につけた人間が増えていった。
店の看板より倉庫番号の方が目立つようになり、開いた扉の前には荷車が何台も並んでいる。
南三番荷役場へ入ると、通りと仕事場の境目はほとんどなくなった。
運河へ張り出した石の足場には小型の貨物船が横付けされ、船腹から渡した板を荷運び人が途切れず往復している。
樽は二人で転がし、木箱は縄を掛けて持ち上げ、さらに重い荷は滑車で吊る。陸へ上がった物もその場で倉庫行きと荷車行きへ分かれ、札を読んだ男が番号を叫ぶたび、別の人間が次の持ち場へ荷を送っていった。
船の上から見た時には、港全体が一つの大きな機械みたいに動いているように見えたが、近くで見るとやっていることはずっと人間臭い。
誰かが数を読み、誰かが札を見て、受け取った奴が次へ渡す。一人が間違えれば後ろが止まるから、声だけはやたら大きかった。
その中から、赤茶色の髪で俺より少し背の低い男を一人探す。
「顔が分からんのが地味にきついな」
「先にガレンさんを知っている方を探した方が早そうですね」
アルが周囲を見回したところで、ちょうど近くの荷車へ最後の縄を掛け終えた男が立ち上がった。
「すみません。ガレンという荷運びの方を探しているのですが」
声を掛けられた男はアルを見て、それから俺の背中へ視線を移し、眉を少し上げた。
「何だ。揉め事か?」
「何で戦鎚見てそっち行くんだよ」
男はもう一度、肩越しに突き出した柄から鎚頭までを眺めた。
「その格好で荷役場まで人探しに来てりゃ思うだろ。そんなもん持って普通の顔して歩くな」
「背負ってるだけなんだけどな」
言われても置いてくる場所がない。
アルは俺の弁明を待たず、バルトグレインから伝言を頼まれていると続けた。
「ああ、バルんとこの客か。ガレンなら朝いたぞ。五番で西二番の荷を降ろしてた」
バルの名前が出た途端、男の警戒はかなり薄くなった。ただ、今も五番にいるかと聞くと、昼前には仕事を終えて抜けたという。
「誰かと話してたようには見えたけどな。五番の監督なら直接聞いてるはずだ」
礼を言って教えられた方へ進む。
同じ荷役場の中でも、扱う荷によって景色が変わった。水際に木材を積んだ一角を避け、低い屋根の下へ魚籠を運び込む人の列を横切ると、五番倉庫の前では穀物袋が荷車へ積み替えられていた。
入口で帳面を見ていた女は、ガレンの名前にすぐ反応した。
「朝からいたよ。頼んだ分を片付けて、昼前に少し外すって出てった」
「誰かと話していたそうですが」
「そう見えた人もいたのかね。忙しい時間だったから、誰と喋ってたかまでは見てないよ」
女は答えながらも、視線を俺たちだけには置いていなかった。倉庫から出てくる袋の数を時々確かめ、荷車の脇で手を上げた男へ次の置き場を指す。
「ただ、仕事を投げたわけじゃない。今日頼んだ分は終わらせてる。ガレンは元々ここ専属じゃないし、別の場所へ行くこと自体は珍しくないよ」
その言い方なら、少なくともバルの金から逃げるため仕事ごと捨てて姿を隠した人間の動きではない。
アルが最近の様子を尋ねると、女は帳面を閉じる前に少し考えた。
「仕事は普通にしてる。ただ、ここ二、三日は終わるたびに別の荷役場へ顔出して、何か聞いて回ってるみたいだね。古い荷札を持ってたから、荷のことで何かあったんじゃないか」
後ろからまた番号を呼ばれ、今度こそ女の身体がそちらへ向いた。
「悪いけど、詳しいことは本人に聞いとくれ。この辺じゃ顔が広いから、倉庫番か荷運び連中に聞けば、そのうち今いる場所まで追えるよ」
それ以上仕事を止める理由もない。俺たちは礼を言い、人の流れへ戻った。
西側の倉庫ではガレンに荷札を見せられた男がおり、南運河へ向かう姿を見たという倉庫番もいた。どちらも少し前の目撃だったが、逃げている人間にしては目立ちすぎている。
どうやらガレンは、仕事の合間に知り合いを捕まえては、自分から何かを尋ねて歩いているらしい。
アルは手当たり次第に声を掛けず、荷の流れを一度見てから相手を選んでいた。倉庫へ人を割り振っている者、札を受け取る者、休憩に入った荷運び人。今どこにいるかを知りそうな相手だけに短く名前を出すので、こちらが歩く方向も少しずつ絞られていく。
「こういうの慣れてるな」
大きな荷車が横切るのを待ちながら言うと、アルは向こう側の倉庫番号を見たまま答えた。
「旅をしていると、人を探すこともありますので」
「なるほど」
俺にとっては慣れない人探しでも、アルには旅の中で積み重ねたやり方があるらしい。
荷車が通り過ぎ、俺も後へ続こうとしたところで、今度は反対から木箱を二人で担いだ男たちが来た。柄が外へ張り出した戦鎚ごと避けるには壁際まで寄る必要があり、身体を半分横へ向けて道を空ける。
「……街中だと、やっぱ邪魔だな」
「先ほども言われていましたね」
「灰森じゃ役に立っただろ」
木箱が横を抜けるまで待ってから、アルも歩き出した。
「ここで役に立つ状況は、できればない方がよいかと」
工房を借りられたら、重心だけでなく背負い方も少し考えるか。そんなことを考えながらアルへ追いつくと、彼女が話していた倉庫番から初めて新しい行き先が出た。
「赤茶のガレンなら、さっき南六番の裏で見たぞ。古い札を箱に当てて何か見てた」
南六番は水路沿いに二つ先で、今は船が入っていない。これまで聞いた話と違って「さっき」なら、ようやく本人へ追いつけそうだった。
南三番の中心を外れるにつれて、荷車の車輪と滑車の軋みが少しずつ遠ざかる。倉庫は続いているものの、扉を閉めた建物が混じり始め、運河に停まっている小舟も一隻だけになった。
南六番の番号が見えたところで、アルの歩調が落ちた。
「マスター。あの方では?」
閉じた倉庫の脇に、使い終えた木箱が何段か積まれている。その前へしゃがみ込んだ男が、手にした古い紙札を箱の側面へ近づけ、残った墨書きと見比べていた。
赤茶色の髪で、立ち上がればたぶん俺より少し低い。顔を知らない相手を探してきたのに、何をしているかの方で先に分かった。
「ガレン?」
呼ぶと男はすぐ立ち上がり、紙札を持ったままこちらを見た。日に焼けた顔の目元には寝不足らしい疲れがあり、俺とアルが知らない人間だと分かると、わずかに肩が固くなる。
「そうだけど。何だ?」
「バルから伝言」
警戒していた顔が、別の理由で露骨に止まった。
「あー……昨日だったよな。金はある」
「その反応なら忘れてはいないな。俺らも取り立てに来たわけじゃないよ」
アルが、バルから聞いたところだけを伝える。支払日を一日過ぎたことより、払えない時でも先に話をしに来るはずのガレンが何も言わず、宿にも戻っていないことを気にしていた。来られない理由があるなら、それを聞いてくればいいと言われている。
ガレンは紙札の角を親指で擦りながら、しばらく閉じた倉庫の方を見ていた。
「悪い。今日の夕方には行くつもりだったんだ」
「なら、それ伝えりゃ俺らの仕事は終わりなんだけど」
そう返しても、ガレンの手から荷札は離れない。さっきまで照らし合わせていた空箱へ一度目を落とし、何かを諦めたように息を吐いて、そのまま一番下の箱へ腰を下ろした。
「別の仕事で、ちょっと面倒なの抱えた。先にそっちを何とかしようとしてた」
俺たちが聞いて回った先で何度も出てきた古い荷札を、ガレンは膝の上へ広げた。
「二日前、いつも仕事を回してくる仲介から急ぎの運びが入った。西側の船着場で木箱を受けて、南運河の倉庫まで持ってくだけ。俺ともう二人で荷車二台使って、三箱ずつ積んだ。六箱あったのは三人とも見てるし、積み出し側の帳面も六だ」
そこまでは、普段と何も変わらなかったらしい。
荷車を引いて南へ向かう途中、仲介の使いを名乗る男が追いついてきた。受け取り先が変わったから南六番の裏へ回せと言われ、追加の運び賃も出すという。
「届け先が途中で変わることはあるのか?」
「ある。倉庫が詰まったとか、船が遅れて空きが変わったとかなら珍しくねえよ。あの時も理由は『先方の都合』だけだったけど、それだけで仕事止めるほどの話じゃなかった」
ガレンは自分の判断を正当化するようには言わなかった。荷を運ぶ仕事として、それなら通ると思ったから指示に従っただけなのだろう。
今いる南六番の方へ顎を向け、話を続ける。
「で、変更された倉庫まで行って荷を下ろした。受け取り側も一緒に数えて、そこで初めて五箱しかないってなった」
一瞬、周囲の音の方が大きく聞こえた。
運河の向こうで小舟を繋ぐ金具が鳴り、少し離れた倉庫の前を空の荷車が通っていく。
「積んだ時は六だったんだよな」
「ああ。だから最初は俺らも数え間違いか、途中で落としたかと思った。荷台も見たし、縄も全部確認した。切れてねえし、緩んだ跡もない。あの大きさの箱が落ちて、荷車引いてる三人が全員気付かないってのも考えにくいけど、念のため来た道も戻った。何もなかったよ」
荷車は二台あり、ガレンが一台、残りの二人がもう一台を見ていたという。荷車を止めたのも、途中で使いと話した時だけだったらしい。完全に放置した時間もない。誰かが一箱だけ抱えて持ち去ったとしても、三人のうち誰にも気付かれなかった理由が要る。
ガレン自身、そこまで考えて答えが出なかったから、二日経った今も荷札を持って歩いている。
「箱に違いはなかったのか?」
「覚えてねえんだ。大きさも同じくらいで印も同じ。中は封してあったし、札にも機械とか船具に使う部品としか書いてなかった。最初から一箱だけ気にして見てたわけじゃないからな」
なくなってからなら、見ておけばよかったところはいくらでも出てくる。
運ぶ時には六つともただの荷物だった。それを後から一つだけ思い出せと言われても無理な話だろう。俺も鍛冶場で似た部品をまとめて扱う時、問題が起きる前から一本だけの傷や色を全部覚えているわけではない。必要なら印を付けるし、数は数える。ガレンたちも、その数は確認していた。
「客はなんて?揉めた?」
「揉めたっていうか、向こうは五つしか来てないって言うし、こっちは六つ積んだって言うから話にならなかった。荷車まで一緒に見せて、結局その日は一回引いた」
そこで終わっていれば、面倒な荷物事故で済んだのかもしれない。
翌朝、ガレンがもう一度話をしに来ると、前の日まで人がいた倉庫は扉を閉め、錠まで掛かっていた。俺たちのすぐ横にある建物が、それだった。
「昨日も閉まってた。今日もこの通りだ。仲介には箱が足りないって話してあるし、向こうも元の依頼人へ確認してる。ただ、まだ返事が来ねえ」
ガレンは立ち上がらず、背中越しに倉庫を見た。
短期の借り手だったのかもしれないし、今日はたまたま誰も来ていないだけかもしれない。レヴァンの倉庫事情を知らない俺には、閉まっていること自体がどれほど変なのか判断できない。
ただ、消えた一箱について話をしたい側からすれば、翌朝いきなり相手ごといなくなれば気になるのは当然だった。
「それで、返事待ってる間も自分で探してたのか」
「待ってて箱が生えてくるなら待つよ」
疲れた顔のまま、ガレンが少しだけ笑った。
「昨日は遅くなったから荷役場の休憩所で寝て、朝からまた仕事。終わったところで、同じ時間にあの辺通った奴がいなかったか聞いて回ってた。何か見てる奴がいりゃと思ったんだけど、今のところ外れだ」
西側の倉庫や南運河で聞いた話が、ようやく一人の行動として繋がった。ガレンは借金から逃げていたのではなく、普段の仕事を続けながら、その隙間を全部なくなった荷へ使っていたらしい。
「このまま出てこなきゃ、運んだ側の責任になるかもしれねえからな。中身がいくらするのかも分かってない。バルの支払いを忘れたわけじゃないけど、そっちまで頭が回ってなかった」
バルが一日の遅れより「ガレンが何も言わない」ことを気にした理由も、今なら分かる。金がないなら先に話へ来る人間が、それすら後回しにするくらい、別の支払いを背負うかもしれない心配へ頭を取られていた。
「今日の夕方には行くんだな?」
「ああ。箱が見つからなくても行く。バルにはこのまま話してくれていいよ」
アルが小さく頷き、預かっていた紙を畳んだ。
これでバルへの報告はできる。ガレン自身も夕方には店へ行くというのだから、これ以上引き留める理由はない。
「悪かったな。わざわざ探させて」
「俺らは工房紹介してもらう代わりに来ただけだから、謝るならバルにしとけ」
「何だそれ」
「労働交換」
ガレンが妙な顔をしたが、こっちの事情を詳しく話す意味もない。
話が切れたところで、倉庫の向こうから車輪の音が近づいてきた。
俺たちの前を通ったのは、この辺で何度も見た二輪の荷車だった。荷台には大人の腰ほどまである木箱が三つ載り、太い縄が箱の角を押さえるように前後へ掛かっている。
引いている男の後ろにはもう一人付き、狭い倉庫脇を曲がる時には、後ろの男が外側の箱へ手を添えて壁との距離を見ていた。
ありふれた荷運びの光景なのに、俺は三つの箱が角を曲がって見えなくなるまで目で追っていた。
ガレンたちが運んだのも、あれほどの大きさの箱だったという。途中で落ちれば音が出るし、荷台から一つ消えれば、重さも縄の張りも変わるだろう。
三人ともそれに気付かなかったのか。それとも、俺たちがまだ聞いていない何かがあったのか。
使いを名乗った男も、閉じた倉庫も気にはなるが、疑わしいものを並べただけでは、一箱の行方は分からなかった。
視線を戻すと、ガレンはまた古い荷札を一枚取り、空箱に残った印と見比べていた。
その紙の角が木箱を小さく擦る音だけは聞こえたが、探している一箱へ繋がるものは、まだどこにも見えていなかった。




