【第2.1章:団地の池、恋のきざし】
古びた団地の片隅にひっそりと佇む池。陽だまりの中、水面は穏やかに光を反射し、その下では色とりどりの巨大な鯉たちが、ゆったりと尾を揺らしていた。みゆは、いつものように両手を顎に添え、その悠然とした姿をじっと見つめている。一月には子供たちと戯れたその顔には、今は少しばかり、胸の奥で揺れる複雑な感情が影を落としていた。
「大きな鯉たち……彼らは、きっと番でいるのだろうな」
彼女の視線の先には、まるで寄り添うかのように二匹の錦鯉が並んで泳いでいる。高次元の宇宙では、生命の結合は種の存続と進化のための当然の摂理として理解していた。しかし、この地球に降り立ってから、彼女は「恋」という、理屈では説明できない「心の繋がり」という現象に触れてきた。級友たちが交わす甘い言葉、公園で見かけるカップルの微笑み。それらの一つ一つが、彼女の内に秘められた「上級大将」としての冷徹な機能に、静かな波紋を広げ始めていた。
「私も、いつか、こんな風に……」
彼女の頬が、わずかに朱に染まる。それは、生命体としての根源的な欲求というよりも、未知なる感情への純粋な好奇心、そして憧れに近いものだった。宇宙の秩序を守るという使命は、彼女の存在のすべてだった。しかし、この地球での「みゆ」としての体験は、その絶対的な使命感に、人間らしい「個の幸福」という新たな価値観を加えようとしていた。
池の鯉たちは、みゆの心の揺らぎを知る由もなく、ただ静かに水草をついばんでいる。しかし、彼女の心の中では、これまでになく激しい感情の奔流が渦巻いていた。これは、高次元の存在が抱くにはあまりに人間的で、そして美しい感情。
「人は1とりではいきられない。助けられたら助け返そう。」
この言葉は、何も人類に限ったことではない。個と個が支え合い、結びつくことで、より大きな存在へと昇華していく。恋もまた、その「助け合い」の一つの形なのではないか。自分の中に芽生えたこの感情を、彼女はまだどう扱えばいいのか分からない。しかし、その甘美な予感は、彼女の心を温かく満たし始めていた。
みゆは静かに立ち上がり、池のほとりを後にした。夕暮れが近づき、団地の窓には温かい灯りがともり始める。まるで、誰かの帰りを待つかのように。彼女の心にも、まだ見ぬ誰かとの「恋」という名の灯りを求める、小さな、けれど確かな炎が宿り始めていた。




