第6話
お父様――ギルベルト・フォン・ローゼの執務室は、屋敷の中央にあった。
重厚なオーク材の扉をマリーがノックすると、中から「入れ」と短く、氷のように冷たい声が響く。
マリーが扉を開け、私は音を立てずに室内へと足を踏み入れた。
デスクの向こうに座る男は、アンネ・ローゼと同じ金髪と、鋭い赤目を持っていた。しかし、その瞳には娘への慈しみなど微塵も感じられない。あるのは、効率と利益を求める当主の冷徹さだけだ。
「体調を崩したと聞いていたが、朝から騒ぎを起こしたそうだな。アンネ」
お父様は書類から目を離さず、事務的に問いかけてくる。
今までの彼女なら、ここで「あの人たちが悪い!」と喚くか、威圧感に縮こまって泣き出していた。けれど、今の私の背後には、数多の理不尽な会議を乗り越えてきた打たれ強さがある。
「騒ぎ、とは心外ですわ。お父様。私はただ、給料泥棒を整理しただけです」
私の静かな、しかし通る声に、お父様の手が止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、初めて私を正面から見据えた。
「……整理、だと?」
「ええ。主人が生死の境を彷徨っている間に油を売るような使用人は、ローゼ家の名に泥を塗る存在です。即刻解雇も考えましたが、まずは温情として再教育の機会を与えました。私の判断、間違っておりましたでしょうか?」
私はスカートの裾をつまみ、記憶の見様見真似のカテーシーを披露した。
お父様の目が、わずかに細められる。
「……熱でうなされて、悪魔付きにでもなったか? あるいは、ようやくお前も落ち着いたか?」
「さて、どちらでしょうね」
私はあえて不敵に微笑んで見せた。
ここでいい子を演じる必要はない。この男が求めているのは、愛らしい娘ではなく、たとえ、悪魔付きだろうと、利用価値のある駒なのだから。
この男に認めてもらえれば、悪魔憑きとして扱われる可能性が格段に低くなる。
「お父様。本日はお願いがあって参りました。私に、しかるべき教育を施していただきたいのです。マナーだけではなく、語学、帝国の歴史、経済。ありとあらゆる必要な知識を」
私は一呼吸置き、彼を真っ直ぐに見つめて言い放った。
「一流の家庭教師を用意してください。あのような無能な侍女に構っている時間は、私にはもうありませんの」
室内が、しんと静まり返る。
背後に控えるマリーが、息を呑む音が聞こえた。
まだ幼いアンネ・ローゼが、自ら教育を望むなど、本来ならあり得ないことだったから。
「……面白い」
お父様の口角が、わずかに吊り上がった。それは親としての喜びではなく、珍しい珍獣を見つけた蒐集家のような笑みだった。
「いいだろう。お前のその変化が本物かどうか、試させてもらう。だが忘れるな、アンネ。我らローゼ家に、無能を養う余裕はない」
「承知しておりますわ。結果で、お答えいたします」
交渉成立だ。
私はもう一度深く礼をして、執務室を後にした。
廊下に出た瞬間、緊張の糸が切れて膝が笑いそうになるのを、精神力でねじ伏せる。
五歳の体は、想像以上に体力を消耗するらしい。
「お嬢様……。あのような。旦那様に対して、あんなに堂々と……」
一瞬扉を睨んで、マリーが感極まった様子で駆け寄ってくる。
彼女の献身的な愛情は、今の私には少し眩しすぎる。
(ごめんね、マリー。本物のアンネちゃんはもういないのよ)
けれど、私はこの偽りの人生を完璧に演じきらなければならない。
私を殺したあの女――線路に落ちていったあの鬼女がこの世界のどこかにいるなら、私は、アンネ・ローゼとして彼女を迎え撃つ準備を整える。
そのためには、この体が必要なのよ。
私は、胸にこびりつく罪の感覚を見て見ぬふりをした。




